北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第4節 水の管理と争い

5 糠田村悪水路堀継出入一件

152 年月日不詳 足立郡糠田村悪水路堀継につき取替議定証文
  (鴻巣市 藤井其家文書)
     為取替申議定証文の事
糠田村悪水路大間村江堀継、滝馬室村・原馬室村・上沼新田地内打来候悪水堀片取堀継申度段、亨保拾七子年相願候ニ付、追々御見分御吟味の上、安永三午年於川井越前守様村々難儀ニ相成候ニ付、願の趣不被及御沙汰旨被仰渡候処、堀割埸所引替両馬室村并上沼新田地内江相願候処、上沼新田の儀は差障無之旨申立候得共、両馬室村の儀は種々名難渋有之、其股御訴訟申上候ニ付度々御吟味の上、寛政十午年於柳生主膳正様縦令見越の儀ニ候共、地元村々ニて差繰申立候場所江悪水路堀替の儀は、若此上従  公儀別段の御趣意を以被仰付候は、格別糠田村願ニ寄ては容易ニ難被仰付筋ニ付、願の趣不被及御沙汰旨被仰渡御請書文奉差上候、然ル処去戌九月中私領上知当御代官所ニ相成、同十二月中双方被召出右悪水路堀替の儀直ニ被仰付候ては難儀も可有之間、得と懸合の上致熟談候様被仰渡候得共、新堀出来候ては両馬室共難儀ニ相成候ニ付、熟談堀継為致候儀は何分御免被成下候様奉申上候得共、情々厚御利解被仰聞候間、再応懸合の上左の通取極候事

資料152 糠田村悪水路堀継につき取替議定証文

(鴻巣市 藤井真家文書)

滝馬室村地内字四軒新田より上沼新田落口迄、新堀割長千四百五拾間余の内、四軒新田より御成橋往還道迄の間、潰地畑壱反二付金四両宛
右往還より萱畑迄の間、反ニ付金三両宛
萱畑右同断、反ニ付金弐両宛
同潰地代金、反ニ付金弐両宛
   是は原馬室村地内の分
 右潰地代金の儀は、御普請取懸の節双方立会堀敷法上ロ土置場共相改、潰地ニ相成候分右直段の積を以其節代金相渡候筈、尤潰地御年貢上納の儀は、御伺被成下御引方不相立候節は糠田村ニて永永御上納可仕候事
村方年中諸役儀の儀は、是迄出作の分中山道鴻巣宿伝馬役共、平均反に付鐚四百文宛年ニ取立来候間、右の積を以鏤四百文宛糠田村より差出可申候、勿論右潰地高の分右村ニて正人馬相勤候ハゝ、右四百文の内其年ニ寄相改引可申筈、尤村方諸入用年々増減等有之候共双方申分無之事
新堀割長千四百五拾間余敷三間上口の儀は、地所高低ニ寄相改堀揚土北の方江片揚ニ致し、荒川縁同様ニ相成候様引平均候筈、尤堀浚等の儀は、糠田村并右組合村々ニて年々浚可申候、并右片揚の儀出水の節押切等出来候ハゝ、是又右村々ニて普請可仕候事
 附り、堀揚土片揚ニ致土手形ニ相成侯ても、出水の節水行障ニ相成候ハ助決て無之候得共、万一右片揚ニ付故障村方も有之候ハゝ、水行障ニ相成不申候趣糠田村ニて申開キ可致候、若不相済両馬室村引合ニも相成候儀ニ候ハゝ諸入用不残糠田村より差出、両馬室村江入用相懸申間敷候事
橋四ケ所内壱ケ所は、御成橋より鴻巣宿江の往還の儀ニ付石橋ニ致し、尤橋巾の儀は横弐間致、長は堀巾ニ応し相掛ケ候筈、且橋杭桁梁木等は随分丈夫成木品見斗候積、外三ヶ所土橋の儀は横巾弐間、長サ右同断、都合四ケ所共糠田村にて相懸ケ渡候筈
堀揚土引平均の場所畑立直り候迄は、年々糠田村より立会相改其辺の作毛並ニ償ひ可申筈
萱畑の内も右同断
水塚三ツ 但、敷八間弐尺原馬室村地内
         上五間
         高壱丈
同 壱ッ  但、敷七間四尺滝馬室村地内
         上五間
         高八尺
   右潰地代金の儀は、反ニ付金三両宛、尤諸役銭の儀も右同断、糠田村より年々差出可申筈
用心船六艘     滝馬室村
同  三艘     原馬室村
   右は出水の節、用心船凡米弐拾五俵積位ニ相仕立、糠田村より両村江相渡候筈
橋四ケ所永々修覆金の儀は、糠田村より御支配御役所江相納候ニ付、御役所より御伺の上御貸附金ニ被成下、右御利足を以橋壱ヶ所金四両ツゝ四ケ所分、都合金拾六両宛、年々両馬室村江修覆料として御渡被下置候積の事
前書ノ通今般再応掛合の上熟談仕取極候ニ付、違変為無之双方為取替申所如件
  武州足立郡
    糠田村
       名 主 藤 次 郎 ㊞
       組 頭 岩右衛門  ㊞
       百姓代 善   蔵 ㊞
    滝馬室村
       名 主 金   助 ㊞
       百姓代 善   六 ㊞
    原馬室村
       名 主 八郎右衛門 ㊞
       百姓代 幸右衛門  ㊞
  同州横見郡
    荒子村 
   扱人  名 主 良   助 ㊞
解説 糠田村(現鴻巣市)は、荒川沿いの村で市域のわずか上流の村である。
『新編武蔵風土記稿』によれば、この糠田村には村の西南に沼地がある。この排水のためであろうか、享保十七年(一七三二)に悪水路を南隣(荒川下流)の大間村(現鴻巣市)の既成の堀に連続させ、滝馬室村、原馬室村(現鴻巣市)と通じ、最後を市域の上沼新田まで導こうとする計画を願い出た。そこで、関係村々が反対の訴訟を起こした。資料151は訴訟関係費用の分担の取きめで、現鴻巣市域の大間・滝馬室・原馬室の三村のほか、箕田・宮前・登戸の三村も加わり、市域では高尾・荒井の両村が加わっている。訴訟を起こすとそのための費用も村々にとっては大きな負担になった。
資料152では、資料151の判決が安永三年(一七七四)に出され、悪水路堀継は不許可となっている。
そこで、糠田村は今度は堀割の場所を変え上沼新田の同意を得たのだが、両馬室村が不承知のため再び訴訟となった。その結果寛政十年(一七九八)再び不許可となり、今後特別幕府が必要としない限り決定は変えないとした。ところが享和二年(一八〇二)に両馬室村が天領になると悪水路堀継を許可する方針が出された(『新編武蔵風土記稿』)。両村は再三にわたり同意を迫られ、終に堀継ぎを認めた。滝馬室村四軒新田より上沼新田落口まで一四五〇間に及ぶ長さで、この資料はその補償を定めている。
それをみると田畑の補償をはじめ、鴻巣宿伝馬役、架橋、作毛補償、水塚築造、用心船の提供など手厚いものであった。これは逆に糠田村にとっては、それほどまでの儀牲を払っても必要な悪水路であったのであろう。この資料では市域の村が当事者の中に入っていないのは、上沼新田が既に同意の意向を示していたからと考えられる。

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