北本市史 資料編 近代

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第1章 政治・行政

第4節 恐慌期の北本

1 農村振興
世界大恐慌と浜口雄幸内閣の金解禁や緊縮政策によつて倍加した昭和恐慌は、特に農産物価格を下落させ、わが国農業に深刻な打撃を与えた。いわゆる農業恐慌であった。政府はこの農村の疲弊を救済するため、昭和七年(一九三二)度から時局匡救予算を計上して、農村土木事業等を起こし、農村労働力の一部を吸収させる一方(資料68)、農山漁村経済更生計画を実施して、農山漁村の自力更生をはかろうとした。埼玉県でも昭和七年に農村経済改善計画の協議会を開催し、「埼玉県農山村経済更生計画」案を作成して、昭和七年度から五か年間、毎年度三〇か町村を農村経済更生計画樹立村に選定し、補助金も交付して、この事業を奨励し、昭和十五年まで続けられた。初年度に指定をうけた石戸村は翌昭和八年三月に、五か年計画の石戸村経済更生計画案を県に提出し、この事業を推進した(資料66)。内容的には(一)精神作興に関する事項、(二)農業経営改善に関する事項とに大別され、農村の経済更生を目的とするものであるが、(二)の農業経営改善に重点がおかれたものであった。このことは、内務省が日露戦争時を契機として町村自治の振興をめざして展開した、いわゆる「地方改良運動」や大正六年(一九一七)頃から展開した一大社会教化運動であった「民力涵養運動」と異なる点であった。中丸村は五年後の昭和十二年度に選定された。
また、町村生活の全面的更生発展もめざされ、文部省の指導ではじめられた愛国=愛郷心養成、良風振作等の道徳教化振興と相互扶助の具現化が進められた。資料67の昭和八年の方面委員石戸村助成会の活動等がそれである。方面委員は大正七年に設置された社会事業行政の実効をはかる制度で、昭和十一年十一月には方面委員令が公布され、公的制度化がなされた。生活状態調査、生活相談、保護医療の徹底などが職務であり、民間の篤志家が委嘱され、自主的な奉仕活動であったのが、やがて社会事業行政の末端を荷なうものとなっていった。戦後は民生委員に代わった。

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