北本市史 資料編 近代

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第1章 政治・行政

第5節 北本宿村の成立

1 戦時下の行政
昭和十二年(一九三七)七月七日の蘆溝橋事件を契機に日中戦争に突入すると、近衛文暦内閣は「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を三大目標に国民精神総動員運動を展開し、戦局の拡大・長期化に対応すべく戦時体制づくりを進めた。埼玉県では同十二年十月五日に国民精神総動員埼玉県地方実行委員会を設立し、実行計画をまとめた。この運動は、当初、神社皇陵への参拝・勅語奉読式・戦没者慰霊祭として全国的に展開されたが、以後は生活刷新運動や資料75の国民心身鍛錬運動をはじめとして、同十三年四月からは戦費調達のための愛国公債購入(愛国貯蓄)・一戸一品献納・勤労奉仕などの戦争経済への協力運動となっていった。また、同十四年九月一日からは毎月一日を興亜奉公日とし、「ぜいたくは敵だ」、「一億一心」といったスローガンのもとに、国民生活にまで立ち入った規制と干渉が行われるようになった。資料76は、同十五年の紀元二千六百年奉祝実施要項と元旦の興亜奉公日について、国民の愛国心を盛り上げる機会として、各市町村で各種の記念事業を行うよう指導した埼玉県の通牒である。県は十一月十日をもって、紀元二千六百年の祝典を行うよう各市町村、学校に要請した。
また戦時行政の重要な課題に軍事援護がある。大正六年(一九一七)七月に傷病兵や戦死者遺族の生活・困窮者を救うために軍事救護法が制定された。その後昭和六年と十二年三月に改正され、名称も軍事扶助法となり、援助範囲が拡大された。実際の扶助は、市町村及び各種軍事扶助団体が協力して扶助し、市町村には軍事援護相談所が設置され、各種団体の中心として、同十二年には軍のために軍事援護相談所の充実を期し、遺族指導嘱託の設置を図ることを県が市町村に通牒したものである。
昭和恐慌下、自力的に農山漁村の更生をはかる目的で実施された農山漁村経済更生運動は、農業恐慌対策の花形として、埼玉県でも政府の方針に基づき、昭和七年十一月「埼玉県農山村経済更生計画」がつくられ、同十五年まで毎年三〇か町村が指定され、県から補助金が支給された。北足立郡石戸村は初年度に指定をうけたが、同十四年五月に「第二次更生計画再樹立ニ関スル事項」を発表し、戦時下に対応した計画経済の実行をはかる第二次更生運動を推進していった(資料73)。
また、選挙の面でも国家総動員体制が進められ、昭和十年五月に勅令で選挙粛正委員会令が公布されると、各都道府県に選挙粛正委員会が設置され、選挙を国民の権利としてではなく、挙国一致を実現する国家的行事とする意図から、全国的な選挙粛清運動が展開された。資料77は、昭和十五年一月二十五日に行われた県会議員選挙に対する埼玉県選挙粛正委員会からの選挙粛正運動の指示である。この選挙では、資料78にあるように民政党系が躍進を遂げ、四三議席中政友会一九名、民政党系一六名、国民同盟一名、中立八名という新分野となった。北足立郡では石戸村高尾出身の田島忠夫氏がトップで初当選し、県会議員を一期務めた。
やがて同十五年七月に第二次近衛内閣が成立すると、七月二十六日「大政翼賛運動」を推進する閣議決定がなされ、国民精神総動員本部が解散し、十月十二日新たに「大政翼賛会」が発足した。この新体制運動は一国一党体制の樹立をめざした運動であるとともに、「臣道の実践」を強調する精神連動、「上意下達、下情上通」を掲げる国民生活統制運動の色彩の強いものであった。特に大政翼賛会を地域で支えたのが隣保班(隣組)=町内会・部落会である。隣保班は動員・供出・配給・防空演習などへの強制かり出し、戦意高揚・相互監視を図るための上意下達の末端機関であった。同様に大政翼賛会の外郭団体として連動したのが翼賛壮年団である。壮年団運動は昭和四年に始められ、初期は選挙粛正の宣伝活動を行っただけであったが、同十七年一月十六日に大日本翼賛壮年団となり、以後地方の組織化が進められた。資料79は、同十七年四月に作成された中丸村翼賛壮年団々則である。翼賛壮年団は積極的に戦争に協力する民兵制的な秩序をもつ、翼賛会の下部機関として組織されていった。

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