北本市史 資料編 近代

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 近代

第1章 政治・行政

第5節 北本宿村の成立

2 石戸村と中丸村の合併
翼賛体制の推進は、町内会・部落会の組織化とともに、町村合併の促進と町村行政の強化をはかる形で強化された。埼玉県は、昭和十四年から町村合併の方針を出していたが、同十七年に町村合併の手引を出し積極的に県内市町村に呼びかけた。その趣旨は太平洋戦争の「必勝体制」をつくることであった。政府は同様の趣旨から、同十八年三月に市制・町村制の改正を実施し、部落会・町内会を法制化して、戦時行政の展開により増大した行政事務の簡素化をはかろうとした。石戸村と中丸村両村においても、この施策に基づき合併協議が進められ、中丸村では昭和十七年十月に研究会が開催された(資料80)。さらに同十七年十一月に合併の調査研究のために「中丸村新体制確立期成会」が設立され(資料81)、同十二月二日には石戸・中丸両村新体側確立期成会実行委員合同会議が開催されて本格的な両村の合併に関する協議が進められた。この結果、新村名は現実的に考え駅名を取り「北本宿村」とし、同十八年一月一日をもって合併することに決定した。これに基づいて、中丸村では中丸村・石戸村両村合併に関する上申が村会で議決され(資料82)、石戸村でも同様に協議が進み、村会で町村合併に関する上申及び答申が出されると(資料83)、それぞれ県に上申された。両村の合併は、先の両村の新体制確立期成会実行委員合同会議で昭和十八年一月一日に決定していたが、手続上の理由から二月十一日の紀元節に変更され、戸数約一四〇〇戸、人口約八五〇〇人、新役場を駅東の中山道沿道に新設し、新村名北本宿村として実現した。さらに、県は昭和十八年六月に町村制の改正に関する通牒を出し、町村常会の幹部会として村会議員・各種団体代表・学識経験者等から選定した参与を速かに置くことを指導した。これに従って北本宿村では同八月、資料87の北本宿村参与条例を定めて、一〇名の参与が置かれた。これら町村合併と行政機構の再編は、戦争遂行のための町村民の協力体制づくりの方策として実施されたものであった。
また、資料88は、昭和十三年に農山漁村の人々に対する保健向上を目的として制定された国民健康法に基づいて、各種健康保険法に未加入の村民を対象としてつくられた北本宿村国民健康保険組合の規約である。当初は任意加入であったが、戦局の悪化に伴って強制加入となり、きわめて形式的となって充分な給付を確保することはできなかった。
なお、資料70の昭和九年度の石戸村の事務報告と資料89の北本宿村事務報告を比較することによって、太平洋戦争を境として、町村行政が戦時体制強化策としてどのように改編実施されていったのかをうかがうことができる。

<< 前のページに戻る