北本市史 資料編 近代

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第2章 産業・経済

第2節 近代産業の発展

4 北本の特用農産物
近代の北本地域の主要産業は農業である。後述する石戸トマトを筆頭として、米麦・製茶・甘藷、昭和に入って中丸村のカーネーションに、石戸村のチューリップという花卉生産も始まり、その他若干の畜産も営まれ、北足立を代表する農業地帯であった。
なかでも、北本の中心は麦生産であった。特に石戸村では農業経営の安定化のために、大正八年度よりゴールデンメロン種の栽培を督励して麒麟麦酒会社と特約を結び、大麦の委託経営が行われていたことが大正九年度の石戸村事務報告によって知られる(資料况)。やがて昭和九年の全国小麦品評会で石戸村の尾崎庄吉が二席で一等に入賞すると、副業のトマト生産と同様、麦作地として石戸の名が知られるようになる。また稲作も、石戸村の関根仁作郎が通常の三倍に当たる反七石の収穫をあげて、大正十年頃から日本一と称されるようになると、 資料135の関根式稲作法に関する佐賀県三養基郡基里村農会からの依頼書にもあきらかなように、全国から関根式米作多収穫法調査の依頼が石戸農会宛に多数寄せられるようになった。
北足立郡の石戸村を含む大砂土村を中心とした地域は一番茶の早く出廻る走り茶の里として知られ、大正六年には技術向上を図るため製茶組合連合会議所主催の製茶改良法伝習所が石戸村に開設されている(資料136)。その結果、昭和二年の北足立郡他三郡の茶業組合主催の第一回製茶品評会の手揉製茶競技会で、初日一等に石戸村の吉田利秋が、製茶品評会でも機械製再製茶部門で石戸村の小島業三郎が選ばれる等、技術向上の効果が十二分に発揮された。
その後昭和十年になると、資料138にみられるように経済更生運動の一環として、石戸村ではトマトにつぎ、「石戸の製茶」で全国的販路の拡大を計るため、最新式製茶機一三台を備えつけた共同製茶場を建設し、農林省の指定もとりつけた。この年石戸村は県の集団茶園設置奨励金の交付をうけ(資料137)、北足立ほか四郡二市茶業組合主催製茶競技大会の褒賞授与式を挙行して、県内では石戸の製茶が広く知られる所となった。
甘藷売買については、従来の甘藷売買の口銭(売買税)の廃止を中丸村外一町三か村の生産者が鴻巣町の甘藷商に求め、示談により取決められた。このため甘藷商は埼玉甘藷について同業組合を結成し、年に一度定期総会を開いていた。しかし、生産者の組織化が図れなかったため、県では取締規則を定め品質管理の基準を定めたが、なかなか徹底できず、大正八年には、石戸村の甘藷が県令取締規則違反として指導をうけた(資料139)。その後、資料140にあるように、石戸村農会が北本宿駅に共同受検所を設置し、入札による販売方法を採用しようとした所、生産者と同業組合の間で対立する事態も発生した。
その他の農業としては、中丸村のカーネーションと石戸村のチューリップ栽培をあげることができる。柳井徳壽は県内の力ーネーション栽培の先駆者であり、兄の喜兵衛も菊の温室栽培の第一人者として知られていた。しかし、当時の温室栽培は研究段階で、特に電気を使用したので熱量コストが石炭の三倍かかり、小規模な温室であると採算がまだとれなかったため、一般に普及したものにならなかった。これに対して、資料141の石戸村のチユーリップ栽培は、村議会が中心となって、トマトについで石戸の第二の特産物にしようと全村民が意気込んで栽培に取り組んだことを示しているが、いずれも特に産地化するには至らなかった。また昭和二年北足立郡農会家畜頭数分布表によれぱ、石戸村は養豚数では郡内随一の四八六頭おり、昭和三年の北足立郡長宛の家畜其他頭数調では八〇二頭と激増している。このように養豚を中心としていたが、昭和八年に入ると資料143の養鶏組連合会加入申込及び共同育雛奨励金交付申請にみられるように、経済更生運動進行の中で畜産の多角化の動きも表われてきた。

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