北本市史 資料編 現代
第2章 北本の農業
第3節 大宮台地の農業用水計画
戦後の緊急食糧難に対して、政府は帰農政策に基づく耕地拡張策を推進する。しかし、期待どおりの効果があがらなかったため、政府の食糧政策は既耕地の改良、つまり土地改良による増産策へと移行する。これに先だち、北本を含む大宮台地一八市町村では、すでに戦時中から、台地に刻まれた谷津田の用水対策が、重要な地域課題として浮上していた。用水計画の概要は水源に乏しく、従って旱魃を受け易い天水利用型の谷津田に、利根川から取水した用水を安定的に供給しようとするものであった(資料64)。
昭和二十二年(一九四七)、谷津田用水計画は「国営農業水利調査」として採択される。一方、この調査計画の作成と前後して、用水事業速成期成会が結成され、北本宿村長は、期成会委員の要職を委嘱されることになる(資料65)。これより用水事業の実現に向けて、一八市町村は一丸の運動をスタートさせることになるわけである。
地形的に複雑な大宮台地の谷津田に、用水を供給するためには、用排水計画の基本となる土地測量がまず必要であった。測量作業は関係一八市町村の食・燃料持ち寄りのもとに、昭和二十二年六月十二日から始められ、突貫作業の結果、同年の八月五日には全地域の測量を終えている(資料66)。
昭和二十四年五月、土地改良法が制定され、自作農制の基盤強化と食糧増産体制の確立が図られることになる。耕作者を主人公とする土地改良制度の制定によつて、土地改良事業が進展をみたわけではなかった。むしろ現実は、この年に始まるドッジラインの展開過程で、土地改良関係予算が大幅な削減を受けることになる。こうした国政レベルの動向を反映して、それまで速やかな進展をみてきた大宮台地の谷津田用水事業も、実現の見通しに暗影を生じることになった。資料67ならびに資料68は、実施設計段階に入った用水事業の速やかな事業採択を願う、関係一八市町村の動きの一端を示すものである。
なお、中山道筋用水事業——中山道両側用水工事——中山道筋用排水改良事業——荒川左岸用排水改良事業などなど事業名のめまぐるしい変転が暗示するように、大宮台地の谷津田用水事業は、本測量を完了し、取水源のめどまでついたにもかかわらず、ついに陽の目をみることなく、雲散霧消する運命をたどることになる。まさに幻の国営農業用水事業計画であった。