北本市史 資料編 現代

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第2章 北本の農業

第1節 近代初期の農業と水利

戦後、地主的土地所有制の解体と農村の民主化を目指して着手された農地改革は、昭和二十二年(一九四七)三月二日の発足以来、四年後の二十五年九月までの間に、全国小作地面積の八〇パーセントに相当する一九三万町歩の耕地を、一七六万戸の地主から四七五万戸の農家に解放した。一方、埼玉県における農地改革は、昭和二十二年三月三十一日の第一回買収から同年十二月二日の第四回買収によって四万二二二六町歩、進捗率九一 ・七パーセントの実績を収めた。これと併行して、売渡作業も開始され、二十二年十一月以降翌年十一月十九日までの間にほぼ作業は完了する。
この間、北本宿村でも農地改革は実施されるが、買収面積、売渡面積、地主数、売渡農家数等に関するまとまった資料がなく、不本意ながらこれらの事項については収録できなかった。周知のごとく、農地改革の成否は、小作農民対地主との力関係で大きく左右される。この力関係を象徴的に示すのが、農地委員会の性格と構成である(資料53)。
これによると、他市町村がいずれも一〇名の農地委員を選出しているのに対して、本村では一五名の委員を選出するという特異な点がみられる。ただし地主、自作、小作の各階層別選出割合は三対五対八(他市町村では二対三対五)とされ、すくなくとも地主代表委員によって、委員会が牛耳られることのないよう配慮されている点は共通している。また、各階層とも立候補者が定員を上回っており、埼玉県全体の無投票農地委員会の割合が小作農層六七パーセント、自作農層六二パーセント、地主層一二パーセントであることから、北本宿村の場合、農地改革に対する農民各層の関心の高さをものがたっていると言える。
農地委員選挙と農民意識との関係については、「農地委員会を地主の有利に運営せんとした地主側が、市町村農地委員の選挙を通して、策謀と反撃により、農民大衆の選挙による闘争を未然に防止し、小作代表といえども自己の懐柔し得るものを立てて、妥協と説得により、この選挙戦に臨まんとした結果が、多くの無投票地区を生ぜしめた」とする、農地委員会埼玉県協議会ほか編『埼玉県農地改革の実態』の指摘にみるとおりである。
農地改革の推進は、地主対小作農の対立・抗争の関係を決定的なものにした。市町村農地委員会の異議申立、県農地委員会への訴願となった争点は、不在地主の判定、小作地の認定、保有地の選定などであった。
地主たちの農地改革に対する必死の抗争にもかかわらず、埼玉県全体での異議申立三五〇件、訴願二〇〇余件の大部分は却下または否決された。資料54は、小作人の資格を主張したものであり、資料55は、農地認定にからむ裁定である。また、資料56は、改革終了後数年を経た時期の小作契約の解約申請であり、農地改革の精神を履きちがえた小作農家の行為の一端を示すものである。小作農家の権利が、法的にも手厚く護られてきたなかでの、異例に近い資料ともいえる。
農地改革は本来の目的である小作地の解放と共に、創作自作農の生産力増強を目指して、農地の交換分合と解放農地に木影を落とす立木伐採の実施をも併せて推進された。資料57ならびに資料58は、時期的には多少ずれているが上記の方針とほぼ合致するものと言えよう。
なお、資料59は、農地改革とは直接関係はないが、農業の発展を願う農民から農業委員会に提出されたものであり、これを受けた農業委員会も農業保護的な本来の機能を十分果していたようである。反面、この資料はやがてくる高度経済成長期の都市化の波と農業の後退を予告するものであった。

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