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第8章 信仰

第2節 堂庵

常光別所の堂庵について
『風土記稿』には二宇を載せ阿弥陀堂(大堂)には「これ右大将頼朝建立の堂にて大堂と号す(中略) 本照弥陀行基の作なるよし、往古は無量寿院の本堂なりしが、いつのころにや脇立の不動毘沙門の両像を遷し、おのづから本堂は別に成しものならんと云」とあるが、しばらく子供の遊び場となったり、コウモリが巣くったりするうち、修復が難しくなり、昭和三十五年に取り壊してしまった。地蔵堂には「無量寿院持」とあるだけであるが、こちらは今もある。
ここでは地蔵堂と共に大堂についても触れてみたい。
大堂は左甚五郎が一夜にして建てたものという言い伝えがあり、地蔵堂は高野聖が来て建てたものといわれている。
昔は大堂の周りに六つの坊があり、そこに住む僧たちが昼は大堂に来てお勤めをし、夜は自分の坊に戻って行ったといわれ、無量寿院がその別当職となっていたという。
大堂はダイドウと呼ばれ、無量寿院の飛地境内地で、地蔵堂もまた同じである。
無量寿院の檀家は大堂の檀家であり、地蔵堂の檀家である。そして、大堂の墓地と地蔵堂の墓地の檀家である。常光別所の家は、たいてい無量寿院の檀家であるが、そうでない家は深井の寿命院の檀家である。無量寿院は寿命院末である。よって寿命院の檀家でも子菩提として無量寿院の檀家扱いになっている。
大堂の方には石塔を建て、地蔵堂の方に埋葬することになっているが、近年は地蔵堂の方に石塔を建てる人もいるという。大堂の墓地は一般にダイドウと呼ばれ、地蔵堂の墓地は一般にヂゾウと呼ばれている。
大堂の方に石塔を建てるようになったことについては、無量寿院は格の高い寺であるため、死体を埋めるものではないといわれ、寺に近い大堂には石塔だけを建てるようになったのだといわれている。
大堂・地蔵堂の檀家総代は、常光別所の上組・中組・下組から二名ずつ、計六名が出ている。総代はまた当番長ともいう。総代になる家は代々決まっていて、その家の長男が世襲で任についてる。ただし跡を継ぐ者がいなくなった時は、分家などに代ってもらうことはある。
総会のようなものは特になく、何か問題が生じた時に集まるくらいである。
大堂と地蔵堂の墓地と堂の清掃は、上組・中組・下組の三組が一年交代の輪番制で行っている。清掃は、墓地の草むしりや堂の掃除(大堂の方は堂がないのでその跡地の草むしり)で、年五回、春・秋の彼岸、夏二回、暮に行う。
諸経費は、お墓の掃除料として各組の当番長が各戸より集め、その年の当番に当たっている組の当番長に渡す。
お墓の掃除の中には、墓の掃除にかかる費用の他、祭りにかかる費用、堂の修理にかかる費用も含まれている。檀家以外の人、つまり新しく引越してきた人からは何も集めない。しかし、祭りに参加したい希望などがあれば、寄付として いくらか頂くことはある。
賽銭は当番長が集計して帳面につけ、次の年の当番組の当番長に渡してゆく。賽銭は堂の諸経費に使われる。
大堂の本尊は阿弥陀如来であるが、阿弥陀様の祭りはなく、もう一つの安置仏である不動様の祭りが八月十六日にあり、これをお堂の祭りという。大堂がなくなった今も、公会堂を利用して、公会堂の前に盆踊りのための櫓を建て、公会堂入口前に「不動尊」と書いた行燈をつけ、桜紙に色をつけて花を作り、竹の棒にそれをたくさんつけたもので公会堂を飾って、祭りをやっている。この時には、無量寿院から大堂に安置していた不動様を持ってきて公会堂に祀る。
昭和十六〜七年までは、八月十六日の昼は無量寿院で施餓鬼を行い、夜大堂で祭りを行った。大堂の前に「不動尊」と書いた行燈を二つ点し、僧侶にお経をあげてもらった後、頼んでおいた芝居衆の芝居を見ながら、皆で持ち寄った重箱の中の煮物を食べたり、酒を飲んだりして祭を楽しんだ。大堂の周りや道の脇には、二〇〜三〇軒位も露店が立ち並んだ。
芝居の舞台は、大堂正面に向かって左側に、廻り廊下をつき出すようにして作られた。
芝居も経費がかかるためにだんだん呼べなくなり、昭和十六年〜七年ごろから昭和三十五年ごろまでは、皆でのど自慢をしたりしていたが、これもやめて何もしなくなってしまった。今は婦人会による盆踊りや、常光別所に伝えられているお囃子が出る。

写真23 地蔵堂(常光別所)

地蔵堂の祭りは八月二十三日で、地蔵盆と呼ばれる。無量寿院の僧侶がお経をあげた後、皆で持ち寄ったものを飲食する。最近は、墓地に櫓を建てて、婦人会による盆踊りが行われるようになった。また「持ち寄り提灯」と称して、詣る人は灯籠に火を点して出かけ、地蔵堂にかけてくる。
昭和四十年ころまでは、葬式は自宅で半分行い、あとの半分は地蔵堂で行っていた。地蔵堂へ行列を作って行き着くとヒヤ(四本の竹の棒を地面に挿して作る)を立てて、その周りを三回まわり、僧侶の読経の後埋葬した。現在はただ埋葬するだけで、地蔵堂を用いることはない。

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