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北本この人 >> 我が道草人生

一、 子供の頃

私は大正三年六月二十一日、岡本忠三郎・もと、の三男として生まれた。
埼玉県鴻巣町大字鴻巣二九二四番地、今の高崎線鴻巣駅下車、 一分位の所に家はあった。
男二人、女三人の六人兄弟であったが二男と三女恒子は亡くなった。小さい時の思い出は格別ないが、時々父母から聞かされた話では、二才の頃「脳膜炎をわずらった」とのことであった。
何でもハシカらしい病状に医者の一人は「ハシカだから温めろ」と云い、もう一人の若い軍医さんは既に「脳膜炎だから冷やせ」と云うのでどうしたら良いか大変迷ったそうだ。
両親相談の結果、若い先生にお願いしたことが幸いして命を取りとめた。
母が見ていると乳を欲しがるので乳をくれたいと思ったが、病後なので医者に相談した処「今は乳首をくい切られる恐れがある」とのことで脱脂綿に水を含ませて与えたところ、それに吸いついてうまそうに飲んでいた。
この様子を見て母親は「やむを得ない、後はどうなっても」と思い乳を与えたところ、「上手に呑むのでホッとした」と云われた。
それからは日増しに健康を取り戻し、丈夫に育った。
私は、それを聞いて母性愛によって助かったのだと思い、母には一生頭が上がらなかった。
大正十年四月、数え年八才、鴻巣小学校へ入学、同十二年九月一日、午前十一時五十八分四十六秒に襲って来た大地震、関東大震災は忘れられない事だ。
丁度、九月一日、二学期始業式であった。
式の後、三谷の須永善兵衛君から遊びに来ないかと誘われ、早昼飯を食べて行く事に決った。 吾家で十一時半頃には昼食を食べてしまって、いよいよ出発の時にあの大地震、須永君の家でも心配すると思ったが皆でよりそって、早く過ぎるのを待ち、おさまってから須永君を家まで送った。
最初どこともなくゴーッと大きな音がして来たと思ったらガタガタ、ガタガタと大きな音が襲って来て、棚のものは落ちるし大変なことになった。逃げようとしても立って歩けばよろけてころび、はって歩くような気がした。
其の後、又三十分位して同じような現象が起り、誰かが「ゆれっ返しだ、ゆれっ返しだ」と叫んだ。
路上は両端の家々から飛び出した人達が、「こんなことは初めてだ」などと、色々な思いを共々に話し合っていた。
そうした中でも又、ゴーッ、ガタガタが大小、次々に起り休むひまもなかった。それでも夕方頃迄には大体おさまったようだった。あるいは、慣れて来て不感症になったのだったかも知れない。
私の家は四ッ角にあったので、どの方面も見えたが三時過ぎ頃から、勝願寺方向にずいぶん白い雲が上がり始めた。
その白い雲の量がどんどん増え、入道雲のようになって来た。
これは今夜は大雷雨になるのではないかと心配させた。しかし、夕陽に照らされて赤く反射して見えるのかと思って見ていた雲は夜になっても真赤で、東京が焼けているのをはじめて知った。
早速、皆でかわるがわる駅へ行き、ブリッジに上って勝願寺の方を見た。
勝願寺の山の右手の方に、火で作った軍艦のように東京の燃え上がっているのが分つた。
九月二日の新聞は来たものの要領を得ない。二、三日経って、四日頃から焼け出された人々が破れた着物で顔はススで真っ黒、足をひきずって歩いて来るのを見た。
十日頃ではなかったかと思うが、避難民列車が到着すると云う知らせがあった。少年団員であった私も狩り出された。炊き出しと云って、大勢の人々が出て大釜で米を炊き、それをむすびに作った。三時間おきに一本位のわりで列車が着き、何十人と云う人が駅のホームに並び乗客におにぎりを配った。
サイダーの空びんに水をつめ、手渡しで列車の中の人々へ配った。
なにしろ中は満員、すし詰めで汽車の屋根の上まで人でいっぱいだった。そんな炊き出しが三回位あったと思う。学校も休みで毎日が炊き出しの配布のお手伝いだったと記憶している。

大正十三年の二月頃、四年生も終わる頃であったが荷車でギッタンバッタンをしていて急に向い側がすべり落ち、はずみで荷車の下に足を入れてしまい骨折をしてしまった。
その頃は自転車もなく、医者も近くにいないため、 一晩中痛んだがそのままおいて、翌日、栢間の大野さん(現在、桶川市・大野接骨院)が、鴻巣の民間の家を借り、午後出張した時みてもらった。だから、引っぱられた足は痛かった。思わず大声で叫んだ程痛かった。あの痛かったことはとても忘れられない。

小学五年生の四月、始業式から先生が足りなくて決まらず、私達のクラスは色々な先生が一時間毎に変って来て授業をした。
一カ月位して小谷村出身の筒井操先生が受持訓導としてわれわれのクラスに赴任されたこの先生は算数が得意であると共に、中等教員の数学の教師の資格を取る目的を持ち、非常な勉強家だった。後に初等教育の方眼数器を作って、近隣の数学の向上の為に非常に貢献された方である。
私はこの先生にも大変可愛がられて卒業後も随分面倒を見て貰った。

六年生になると上級校への入試があるので、その準備勉強が大変だった。学校でも特別教室を作り、各先生が担当となり、毎日午後の授業は特別教授であった。
大正十五年(大正は十二月二十五日迄、従って昭和元年は七日間)十一月頃には、受験希望を取りまとめ、翌、昭和二年三月二十九日、三十日の二日間試験があった。
私の父は小僧に行けと言ったが、母は「試験を受けよ」と云った。
本当に困った。母は父に「いくら枩が学年で一番だと云っても、中学校の試験を受けなければ証明されないのと同じだから、試験だけは受けさせたらどうか」と案を出した。父も承諾した。

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