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北本この人 >> 我が道草人生

一、 埼商時代

私は埼玉商業(募集100名、応募者519名)と熊谷中学(募集200名、応募416名)を受験して両方に合格した。
鴻巣小よりの受験者は熊谷中受験者17名中合格7名、埼商は受験者13名中合格者3名だった。
当時の難関は埼商、 一中(浦和)、二中(熊谷)、三中(川越)の順だったと記憶している。無事、昭和二年、埼商へ入学した。
十月頃だったと記憶するが昭和天皇の即位の大典があった。此の大典の祝賀は各、市町村の主催で行われ、深谷の町でも開催した。埼商生も全校五百人が参加した。
学校では記念事業として学芸会が行われた。この時始めて各学年二名づつの弁士が指名され、弁論を競った。
埼商弁論部長は深谷市出身の少壮人気教論の山口平八先生であった。当時、五年生に高田富之氏が在学していたが、氏は杉山高等学校から北海道大学の聴講生となり、戦後の衆院選に出た人である社会党の代議士になったこの高田さんの提案で弁論大会出場者をまとまりの核として弁論部が作られ、山口先生に指導をお願いしたのだった。
一年生ではA組・岡本枩治、B組・柿木顕君が弁論部員となった。これは亦、後年私の生涯の特技の一ツとしておおいに役立ったのであった。
弁論部の練習は月、水、金の放課後と決まり、毎週簿記室で練習した。
最初、永井柳太郎他、有名人のレコードをかけ部員全員じっくり聞く。次に五年生から順次練習する。
一年生が終ると五時半だった。特に山口先生は一人一人の特徴をとらえ、「君の声は此の人に似ている」「君の話しぶりは此の人の語り方を考えたらどうか」とまで立入った細かい指導をされた。あき足らぬ時は自分から大声を張り上げて、腹から出る声とのどから出る声の比較をされたりもして教えてくれた。
私は永井柳太郎の弁論を習った。
三年の学芸会(昭和四年) 「青年よ覇気あれ」
四年の学芸会(昭和五年) 「欧州連盟の必然性」
五年の学芸会(昭和六年) 「国家の基礎は自己完成にあり」
と言うようなタイトルで話したと思う。特に当時はフーバーモラトリアムの結果起った世界大恐慌のため、どうしても政治がらみの社会問題を考えたようだ。身近かなことを論題にすると話の規模が小さい、もっと大規模なものを題材としろと言うので青年や天下国家を論じたものが多かった。
大体、 一ツ腹稿(一応心で考えること)を作るとそれを部員、皆で討論しながら直す処は直して原稿が出来上った。それを半年は持廻った。声の鍛練には一度に二回続けて練習した。どんな冬でも三回みっちり話し、練習すると、下着は汗だくになった。
こうした練習の結果、五年の時、東洋大学主催の全国中等学校弁論大会に学校から派遣されることとなった。
昭和六年六月二十日、父は「しゃべるんでは飯はくえぬ」と云って、大会に出場してはならないと反対した。私は学校からの派遣だから困ると判断し自分で参加を決めた。
結果は夢にも考えたことのない優勝、 つまり壱等賞だった。
翌日は日曜日、早速友人の池沢君のところで写真を撮った。偶然にも此の写真は誕生日(六月二十一日)の記念の写真にもなった。
月曜日、学校へ行くとすぐ校長先生に報告した。校長は石崎靖夫先生であった。
始業の鐘と同時に舎前の校庭に集合した。埼商生全員の前で、校長より優勝が披露された。其後、私を先頭に氏神である県社・輸山神社に参拝し、帰って来てから教室の掃除をしてその後は全体休講となったのだった。

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