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北本この人 >> 我が道草人生

一、 父・母のこと

私の母は実に立派の一語に尽きる人であった。

母は箕田村、武内茂左ェ門、 マツとの間に生まれた長女である。 一男五女の大姉だった。
昔のことで家業のゴッタ屋(何でも屋)を手伝っていた。私の祖父、定吉がよく此の店へ寄り一杯呑んだと言う。此の時、母の客扱いの上手さに感心し、倅の嫁にと云って毎日のように通い17才で岡本家へ入った人である。
当時、高等小学校卒業だから相当の知識はあったようである。新聞が来ても家族が火鉢の廻りに集まり、母の新聞を読むのを聞き解説してもらうのが非常に楽しく幸せを感じた。
私が埼商へ行けたのも此の母のお蔭であり、此の母なければ学校へは通えなかっただろう。残念なことに昭和三年二月十三日、子宮内出血と云う病で一日病んで他界してしまった。三十七才だった。風の強い日だった。

父は謹厳実直そのもののような人であった。
よく聞かされたことは、欧州大戦が始まると物価が上がった。其の最中、私の祖父・定吉が中風で倒れ、いわば借金地獄の跡取りとなり随分苦労したと言う話であった。家族は常に十二人を下らず、商売の木挽きだけでは食えなかった。そこで小さい山を買い木を切り出しながら材木屋に転じた努力の結晶のような人であった。
金に困った事が慣い性となり、人情もつき合いも、事、金に関する限り守銭奴と云われた。それも仕方なかったのだろうと思う。
良い面も亦数々あり、小学校も出して貰えなかった人間として、体験から出た教訓が多かった。
「材木を売る時は親切も一緒につけて売れ」

「どんな約束をしても破っても、一人の噂は七十五日、但し、金の場合は返す。とどける金が一日遅れてもズルイと言われる。金の約束ごとは確実性のある者以外してはならぬ」とか

「株へ手を出すには受け取る利息だけ出資せよ。損しても元っ子だから」

等と云った言葉は忘れられない。
六十五才位から病勝ちであった。後妻のうめの世話を受けながら七十四才で逝ったことはせめてもの幸福ではなかったかと思う。

話は前後するが昭和三年二月、私は母を失って手も足も足りないのでこの時は学校をやめて父を手伝う決心をした。
兄、倉吉は高崎の中曽根康弘の実家、古久松材木店へ小僧に行っていた。父を手伝う決心をした私であったが、この時父は「切角、母が望んでいた学校へ行ったのだからあと一年行け、高等小学校卒よりいいだろう」と云った。
そこで又、通学することとなった。此の為、 一番骨の折れたのは祖母キノだったと思う。
そうこうするうちに父は私が四年になる時、「学校をやめろ」と言って来た。私は、二年ならともかく、三年以上になると専門学科の簿記も習うし、その他の商業科目も多くなって来るので「商業学校と云うのはこれからが大事だ。何もいらないから是非、学校へやってくれ」と言って対立の日々を通した。
父は私を(オモチャ屋)へ小僧にやる事を人に頼んであって既に決めたらしかった。
「奉公が終われば壮丁検査、礼奉公一年してる間に土地、家屋を作って資本金千円やるから小僧に行け」と云った。
昭和五年頃の千円の価値は家で云えば(千円普請)と云って良い家が一軒建つ位だった。
私も迷ったが「何んにもいらぬから学校へやってくれ、どうしても小僧にやれば何処へ行っても逃げて来てしまう」と云い張った。
こうなると一歩も引かない私の気性が分っているだけに父もやむを得ず通学を許した。
その代わり、後のことは総て実行された。
すなわち、 一銭もやらない、自分で生きて行けと言うことである。私は十九才の年の三月以降、金銭面では父の世話は受けなかったと云って過言ではない。腕二本、足二本を資本として独立独歩の生活が続くのであった。

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