北本市の埋蔵文化財

社会3 >> 北本市の埋蔵文化財

宮岡氷川神社前遺跡発掘調査報告

早川智明 吉川国男 石井幸雄
岩井住男 土肥 孝

3. 遺跡の位置と環境

 (2) 歴史的環境

北本市における埋蔵文化財包蔵地の数は、昭和44年度に分布調査をした結果によれば、60箇所が判明している。これらのうち、宮岡氷川神社前遺跡と同様に、荒川の沿岸部の台地、南北4×東西1キロメートルの範囲に所在する遺跡は28箇所を数える。(「北本市の遺跡と遺物」参照)
最も古い遺跡は、本遺跡の西方400メートルの地点にある宮岡遺跡Iであり、ここからは、無土器時代と思われる石刃や掻器が出土している。また、新しい遺跡は、中世の石戸城跡などがある。そして28箇所の遺跡は、荒川に面する台地縁や、荒川に通ずる支谷の縁辺部に立地している。なお荒川は、しばしば流路をかえており、有史以前は、北足立台地の東部を流れていたことが多かったようであり、現在の荒川の流路は、和田・吉野川が流れていたこともあった。
28箇所の遺跡のうち、20箇所については、縄文時代の遺物が散布している。縄文晩期に属する遺跡は、いまのところ、本遺跡以外には確認できないが、城中遺跡Iや八重塚遺跡には安行I・Ⅱ式土器が散布しているので、晩期の遺物・遺構が今後発見される可能性はある。
さて、本遺跡が立地する支谷の周辺には、遺跡がとぎれなく存在している。精査すれば少なくとも20箇所の地点に分かれるものと予測されるが、便宜上3ブロックに別けた。すなわち、支谷の北側に立地する遺跡群、支谷の南側に立地する遺跡群、支谷の東端谷頭部に立地する遺跡群がそれである。支谷の北側に立地する遺跡群を宮岡遺跡Ⅰと命名したが、この遺跡は、前述の如く無土器時代、縄文時代前・中期、古墳時代の遺物が散布する遺跡である。また、支谷の南側の遺跡群は宮岡遺跡Ⅱと命名したが、この遺跡は、縄文時代の早・前・中期、古墳時代の後期の遺跡である。
このように、この支谷に存在する遺跡で、縄文時代の後期末葉から晩期にかけての遺跡は、現在のところ確認できるのは、宮岡氷川神社前遺跡だけである。居住適地は、支谷の周辺全域にわたってあるのに、谷頭部に占地したことについては、おそらくそれなりの理由があったのであろう。今後、同時期の遺跡が、当支谷から発見されないとしたら、本遺跡が支谷全体を用益地として占拠していたことを物語る例ではないかと仮想してみる必要がある。
なお、ここで目を外に転じて、北足立台地およびその周辺における縄文後期末葉から晩期にかけての遺跡について見てみよう。まず北本市において確認された当期の遺跡としては、花ノ木所在の堀込遺跡Ⅱがある。この遺跡は、元荒川水系に立地するもので、その詳細は不明であるが、表面採集で、安行ⅢC式土器がみとめられている。北本市に南接する桶川市においては、2遺跡ある。一つは、同市加納所在の後谷遺跡で、堀込遺跡Ⅱの南東800メートルに立地し、元荒川の旧河道の沖積地に移る場所に営まれたもので、広い範囲に焼土址があり、後、晩期の土器のほか、土偶、土版、土製耳飾、土笛、石剣などが多数出土している(註1)もう一つは、同市下日出谷字高井所在の遺跡である。(註2)この遺跡からは、本遺跡出土の土製耳飾と全く同形のものが発見されているほか、遺跡自体の規模が大きい点で注目されなければならない遺跡である。大宮市においては、亀形土製品を出した東北原遺跡(註3)、完形土器が100個以上も出土した小深作遺跡(註4)、および古くから学界から注目されていた奈良瀬戸遺跡(註5)などが著名である。また川口市においては、安行式土器の標式遺跡となった猿貝貝塚(註6)をはじめとして当期の貝塚が多い。安行式土器の細分の標式遺跡となった岩槻市真福寺貝塚および泥炭遺跡(註7)も今後ますます重要性を増す遺跡であろう。さらに、最近、羽生市発戸で晩期の遺跡の所在が明らかとなり(註8)、土製仮面が発見されたり(註9)して関東構造盆地運動の研究の面からも大きな成果である。このほか、埼玉県の北部や西部にも当期の遺跡はあるが、北足立台地ほどは多くないし、発掘調査例も少ない。
再び本遺跡近辺の歴史的環境に立ち戻って、本遺跡営成以後のことについて触れておこう。縄文晩期終末から弥生時代にかけての遺跡は見当らないので、どのような形で弥生文化が波及し、発展させていたか全く不明である。北本市の荒り|1沿岸地帯に再び居住が明らかとなってくるのは、古墳時代の前期からである。石戸宿字庚塚には、五領期の集落跡があるようだし、鬼高期以後の集落跡は急に数を増し、この支谷の両側にも存在するらしい。また高尾地区の台地縁上には、古墳が群を成して築造されてくる。
くだって、平安時代から鎌倉時代にかけては、南方約2キロメートルの堀之内館があるし、対岸の比企郡吉見村に居館した源範頼の伝説も多くあることから、相当武士の動きが活発であったことが推察される。室町時代になると、石戸城が成立し、県内の川越、松山、岩槻の各城との反目・連けい関係からしばしば戦乱があったのではないかと察せられる。
江戸時代の当地のことについて「新編武蔵風土記稿」(註10)によれば、高尾村の条につぎのように述べている。高尾村は江戸より行程十三里、民戸百六十余、村の四境東は本宿下石戸上村に境ひ、南は荒井村及び石戸宿村に隣り、西は荒川を界として横見郡荒井・江川・久保田・須野子等の諸新国に接し、北は当郡北袋・原馬室の二村及び小松原に続けり、東西二十町余、南北十二町、相伝ふ当村古は田高村と呼び、嫌倉右大将家の臣石戸某の釆地なりしに、後鎌倉浄泉寺領及び大串氏・木部氏の釆地を経て、永正二年太田美濃守資家の領分となれりと。御入国の後は当所も牧野讃岐守領せしが、内匠頭信成の時六男太郎左衛門永成に分地して今も其の子孫大和守が知る所なり(下略)
江戸時代、高尾には、荒川の舟運の船問屋があり、高尾河岸と呼ばれ、物資、人の往来が繁かったが明治年間、高崎線開通によりさびれてしまった。現在、人家は台地上に散在し、いわゆる純農村的景観となっている。
(吉川国男)

第2図 宮岡氷川神社前遺跡 全図


1 青木義脩「後谷遺跡」浦和考古学会研究調査報告書第3集 昭和45年
  吉川国男「埼玉県後谷遺跡出上の土笛」考古学雑誌第56巻第1号、昭和45年
2 桶川町教育委員会「桶川町遺跡地名表」昭和45年
3 大宮市役所「東北原遺跡」大宮市史第1巻所収 昭和43年
柳田敏司「大宮市東北原出土の亀形土製品」考古学雑誌第53巻第4号 昭和43年
4 大宮市教育委員会「小深作遺跡」大宮市文化財調査報告第3集 昭和46年
5 大宮市教育委員会「奈良瀬戸遺跡」昭和44年
6 山内清男「日本先史土器図譜」昭和16年
7 甲野 勇「埼玉県柏崎村真福寺貝塚調査報告」史前研究会第2号
8 栗原文蔵「羽生市発戸出土の安行式土器」埼玉研究第16号 昭和43年
9 栗原文蔵「埼玉県羽生市発戸遺跡の土面」埼玉考古第8号 昭和45年
10 雄山閣版「日本地誌大系」

第3図 第一次調査地点Aトレンチ西壁土層断面図

第4図 第一次調査地査地点実測図

<< 前のページに戻る