石戸蒲ザクラの今昔 Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

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Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

3 範頼伝説とその背景

源範頼は、頼朝の弟であり義経の兄である。遠江国(とおとうみのくに)池田宿(磐田市)の遊女を母とし、 蒲御厨(かばのみくりや)(浜松市)で生まれたので「蒲冠者」(かばのかじゃ)と呼ばれたという。九条兼実の日記『玉葉』(元暦元年九月三日の条)には、幼少の範頼が公家の範季朝臣に育てられたと記されている。その後、 鎌倉幕府が編さんした『吾妻鏡』に登場するまでの消息については不明である。吉見町御所で幼少期を過ごしたとか、吉見町安楽寺で稚児僧として過ごしたという伝承もある(第3 ・ 4図)。

第3図 息障院(吉見町御所)

第4図 安楽寺(吉見町御所)

『吾妻鏡』に初めて登場するのは、叔父志田義広を討伐する軍に馳せ参じた人々の中に「蒲冠者範頼同じく馳せ来らる所なり」という部分である。また最後は、建久四年(一一九三)「範頼朝臣被下向伊豆国…偏如配流」である。伊豆に下向させられ、あたかも配流のようだったと書かれている。その後どのような末路をたどったのかは記されていない。そのことが後にいろいろな伝説を生む伏線となるのである。

第5図 安達盛長坐像(鴻巣市放光寺蔵)

範頼は兄頼朝の挙兵を知って駆け付け、弟の義経とともに源氏の大将として平家追討の戦で活躍し、源氏に勝利をもたらした。しかし、平家を滅ぼした後の弟二人は悲劇的な道をたどることになる。義経は頼朝の不興をかい、西国から関東に戻ることを許されないまま奥州藤原氏を頼るが、頼朝の意を受けた藤原氏に討たれてしまう。範頼は頼朝の近くに仕えていたが、謀反の疑いありと伊豆に幽閉される。自分に万一のことがあったとき、範頼の存在が脅威になると案じた頼朝の策略と考えられている。範頼最期の地は伊豆と考えるのが妥当であろう。
江戸時代末に書かれた文献には石戸宿に範頼の館跡があるとか、範頼は石戸宿で亡くなったなどとの言い伝えが取り上げられている。しかし、著者は「いずれも根拠のないこと」と一蹴している。史実ではないかもしれないが、伝説が生まれた理由はあるはずである。
兄、頼朝の乳母は比企尼(ひきのあま)である。弟、義経の正室は河越氏の娘である。範頼の妻は、鴻巣市糠田(ぬかた)に館を構えていたといわれる安達藤九郎盛長(あだちとうくろうもりなが)(第5図)の娘だと伝えられる。盛長は頼朝の重臣である。重臣の娘婿をむげに殺しはしないだろうという想像が働く。あるいは盛長が娘のため、 自らの責任において範頼を領内にかくまっていたのではないか、と思いたくなるのが人情だろう。
範頼の子は僧になり、 後に母万の所領を継いで吉見氏を名乗っている。「吉見氏系図」(第7図)には吉見氏の祖は範頼で、奥方は盛長の娘とある。


第7図 吉見氏系図
  • 系図の人物欄をマウスオーバーするとその人物以降の系図が分かるようになっています。
  • 系図の人物欄をクリックするとプロフィール等が別ウィンドウで表示されます。
    但し、*付の人はプロフィールはありません。


第6図 普門寺跡のシダレザクラ(桶川市)

余談になるが、『新編武蔵風土記稿』によると、桶川市川田谷の普門寺には範頼のドクロが寺宝として祀られていたという。普門寺は、現在では廃寺となっているが、 跡地に立つシダレザクラ(第6図)は見事である。範頼伝説のある場所は、蒲ザクラをはじめ不思議と桜の名木に縁がある。
範頼と北本を直接結びつける資料はないが、頼朝・範頼・義経兄弟と北本周辺を結びつける史実はある。石戸宿に範頼伝説が伝わる素地は明らかに存在するのである。

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