石戸蒲ザクラの今昔 Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説
社会1 >> 石戸蒲ザクラの今昔 >> Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説 >>
Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説
3 範頼伝説とその背景
源範頼は、頼朝の弟であり義経の兄である。遠江国(とおとうみのくに)池田宿(磐田市)の遊女を母とし、 蒲御厨(かばのみくりや)(浜松市)で生まれたので「蒲冠者」(かばのかじゃ)と呼ばれたという。九条兼実の日記『玉葉』(元暦元年九月三日の条)には、幼少の範頼が公家の範季朝臣に育てられたと記されている。その後、 鎌倉幕府が編さんした『吾妻鏡』に登場するまでの消息については不明である。吉見町御所で幼少期を過ごしたとか、吉見町安楽寺で稚児僧として過ごしたという伝承もある(第3 ・ 4図)。第3図 息障院(吉見町御所)
第4図 安楽寺(吉見町御所)
第5図 安達盛長坐像(鴻巣市放光寺蔵)
江戸時代末に書かれた文献には石戸宿に範頼の館跡があるとか、範頼は石戸宿で亡くなったなどとの言い伝えが取り上げられている。しかし、著者は「いずれも根拠のないこと」と一蹴している。史実ではないかもしれないが、伝説が生まれた理由はあるはずである。
兄、頼朝の乳母は比企尼(ひきのあま)である。弟、義経の正室は河越氏の娘である。範頼の妻は、鴻巣市糠田(ぬかた)に館を構えていたといわれる安達藤九郎盛長(あだちとうくろうもりなが)(第5図)の娘だと伝えられる。盛長は頼朝の重臣である。重臣の娘婿をむげに殺しはしないだろうという想像が働く。あるいは盛長が娘のため、 自らの責任において範頼を領内にかくまっていたのではないか、と思いたくなるのが人情だろう。
範頼の子は僧になり、 後に母万の所領を継いで吉見氏を名乗っている。「吉見氏系図」(第7図)には吉見氏の祖は範頼で、奥方は盛長の娘とある。
第7図 吉見氏系図
- 系図の人物欄をマウスオーバーするとその人物以降の系図が分かるようになっています。
- 系図の人物欄をクリックするとプロフィール等が別ウィンドウで表示されます。
但し、*付の人はプロフィールはありません。
第6図 普門寺跡のシダレザクラ(桶川市)
範頼と北本を直接結びつける資料はないが、頼朝・範頼・義経兄弟と北本周辺を結びつける史実はある。石戸宿に範頼伝説が伝わる素地は明らかに存在するのである。