石戸蒲ザクラの今昔 Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

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Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

4 御家人石戸氏と堀ノ内館跡

〔新編武蔵風土記稿』の「石戸宿村」の項では、東光寺一帯を「此地蒲冠者範頼の住居の地とも、また石戸左衛門尉(いしとさえもんのじょう)の居跡なりともいへり」と記している。少なくとも江戸時代から周囲が中世武上の居館であるものと認識されていたのである。

第8図 発掘調査で現れた堀跡(昭和61年)

その後、北里メディカルセンター病院が当地に進出することが決定し、昭和六十年に市教育委員会が埋蔵文化財の発掘調査を実施すると、事実、二重に廻らした大規模な堀跡が発見されたのである(第8図)。もちろん、この堀跡こそが館の外側を画する構え堀であることはいうまでもない。しかも、その堀跡は上幅五・五メートル、深さ二・三メートルという大規模なもので、そのことは館の規模の大きさと、その主である武士の勢力の強大さを物語っている。
では、この館の主は範頼なのだろうか、それとも石戸左衛門尉なのであろうか。範頼であるとすれば、伝説と歴史的事実とが一致することになるが、発掘調査では残念ながら範頼が居住したことを裏付ける遺物の出土は認められなかった。同様に石戸氏である確証も得られなかったが、東光寺に残る板石塔婆群や阿弥陀如来坐像などの鎌倉期の文化財(第Ⅴ章参照)、さらに石戸氏の名を記す諸々の史料を精査してみると、現在の歴史研究の成果では、館の主は石戸氏に比定するのが妥当であると考えられている。
この石戸左衛門尉とはいかなる御家人であっただろうか。つぎに石戸氏の名が記載された史料を追いながら、人物像に迫ってみたい。
史料1
『吾妻鏡』寛元三年(一二四五)八月十六日条
「十六日戊寅、天顔快霽、鶴岡馬場之儀、殊被結構、縡已如去年、将軍家御出、供奉人同昨日、(略)
十列 (中略)
三番 石户左衛門尉
四番 足立太郎左衛門尉 (後略)」

史料2
『吾妻鏡』寛元四年(一二四六)八月十五日条
「十五日辛丑、鶴岡放生会也、将軍家有御出之儀、行列
先陣随兵 (中略)
次御後五位六位布衣下括 (中略)

石户左衛門尉 (後略)」

史料1の『吾妻鏡』は鎌倉幕府が公式に編さんした日記体の史料で、寛元(かんげん)三年の条に「石戸左衛門尉」の名が初めて登場する。史料によれば、鎌倉の鶴岡八幡宮放生会(ほうじょうえ)の馬場の儀において、十列を石戸氏が務めた記事である。また史料2は、やはり翌年に行われた鶴岡八幡宮放生会の記事である。将軍藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)が参宮する際の行列で、石戸左衛門尉が御後布衣衆として参列したことを記しているが、武蔵国の御家人で御後布衣衆を務めているのは安達氏だけであり、御家人として比較的高い位置にあったことがわかる史料である。
史料3
『六条八幡造営注文』建治元年(一二七五))
「武蔵国
河越次郎跡 廿貫   同三郎    十貫
江户入道跡 廿貫   石户入道跡  八貫
(後略)
さらに史料3は、京都六条の八幡宮を造営する際、この造営料を負担した人々を列記したものであり、「武蔵国」の条において、河越氏、江戸氏という秩父平氏系の豪族に続き、「石戸入道跡 八貫」とある(第9図)。武蔵国において四番目に名を連ねていることは、その寄進高以上にやはり御家人としての格の高さを示すものであろう。上記の史料以外では『承久記』の中にもその名がみえ、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱(一二二一)では、幕府方の御家人として参戦したことが明らかとなっている。
しかしながら、石戸氏に関する文献史料そのものは大変限られており、実のところ、鎌倉時代の石戸の地に館を構え、付近を本貫(ほんがん)の地とした御家人が蟠踞(ばんきょ)していたことを知るにとどまり、範頼同様、謎の多い武士といえるのである。

第9図 『六条八幡造営注文』にみえる「石戸入道跡」(国立歴史民俗博物館蔵)

第10図 「御獅子箱」の絵図

次に石戸氏の館跡と想定される「堀ノ内館跡」について紹介しておこう。館跡のすべてを調査したわけではないので、その全容はうかがい知れないが、石戸神社に奉納されている御獅子箱(おししばこ)の蓋裏には、興味深いことに館の絵図が描かれている(第10図)。
安政五年(一八五八)に描かれたこの図には、館の中央に方形の居住空間があり、それぞれの四隅には「東光寺」「八幡大神」「諾冉(だくさく)二神」「浅間大神」という信仰空間を配置して四方を固め、その周囲を曲線的に延びる二重の堀で囲んでいる様子が描かれる。
これを参考に当地の地割りを観察すると、まさにこの絵図どおりに館の範囲が理解でき、先の発掘された堀跡は館の北東部を画する堀跡であり、鬼門の方角に石戸神社(諾冉二神)が、裏鬼門にあたる南西の地に東光寺が位置していることがわかる。

館の中心には方一町の居住地があり、その中央が浅い谷底になっているのが特徴といえる。館の周囲には台地を侵食する谷津が展開し、その谷に画された台地を後背地とする立地は、 開発領主としての石戸氏の性格を彷彿とさせるのである(第11図)。

第11図 堀之内館跡周辺の航空写真(昭和22年)

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