石戸蒲ザクラの今昔 Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

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Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

コラム① 亀御前の石塔

これまで紹介してきた範頼の伝説では、範頼は石戸宿の東光寺付近に館を構えていたといわれ、実際の発掘調査でも中世居館の堀跡が確認されています。
興味深いのは、この東光寺から二キロメートルほど北に位置する高尾六丁目の阿弥陀堂にも、範頼と亀御前の伝説が残されていることです。
明治四十五年(一九一二)に編さんされた『石戸村郷土誌』中の「亀御前の舊蹟」では、次のように記されています。

亀御前の石塔(阿弥陀堂)

範頼は横見郡の御所(現吉見町)に隠れ住み、石戸領主の安達盛長の娘を奥方に迎えていたが、範頼が伊豆の修善寺に幽閉された際、亀御前は高尾の荒川で夫の訃報に接し、悲しみのあまりに自刃した、というのです。
現在、高尾阿弥陀堂の鐘楼脇には、寛政十一年 (一七九九)に建てられた亀御前の供養塔と伝わる石塔が立っています。正面の銘文には「當所泉蔵院境内/阿彌陀堂往昔亀御前之/有平石塔然処於龍蔵山/常燈明就供養右平石塔/為奉納仍替石致造立也」とあります。つまり、明治期までこの地にあった泉蔵院には、亀御前の供養塔と伝わる板石塔婆(平石塔)がありましたが、常勝寺(現鴻巣市)の常燈明供養の折にこれを同寺へ移し、代わりに現在の石塔を建てたというのです。またこのとき、亀御前の薙刀(なぎなた)も一緒に移したことがわかっていて、現在、いずれも常勝寺で大切に保管されています。
高尾の伝説と石戸宿の伝説との違いは、亀御前が奥方であること、範頼が伊豆で没していること等で、一部に史実を取り混ぜている点が特徴といえるようです。

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