石戸蒲ザクラの今昔 Ⅲ 指定前後の蒲ザクラ

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Ⅲ 指定前後の蒲ザクラ

コラム③ 掛け軸「蒲櫻記」

石戸宿二丁目の高松武雄家には、「蒲櫻記」という掛軸が伝えられています。その来歴については不明ですが、細川潤次郎氏による撰文、毛利雙松氏の書により、明治二十一年(一八八八)二月に作製されたものです。このうち文を草した細川氏は、明治・大正期の法制学者で、貴族院副議長、女子高等師範学校長、学習院長等を歴任された方です。

『蒲櫻記』(高松武雄氏蔵)

以下、岡田勝雄氏による読み下しを掲げます。
「蒲桜は武蔵足立郡石戸村に在り。高さ五丈余、 囲りは六人抱え、枝條は横にひろがり、蔭は七十歩なるべし。洵に数百年物たり。春の候ごとに穠こう爛発、白雲帯を曳くがごとく、数里外よりして之を望むは尤も偉観たり。伝に云う。蒲冠者範頼が手植えせる所の樹下に古墳十余基有。貞永弘安等の年号を刻む。其の五輪塔は範頼の墓と為す、しかれども文字剥蝕して弁識すべからす。史を按ずるに頼朝讒を信じ範頼を伊豆修善寺に幽す。命を尋し梶原景時之を殺し首を鎌倉に致し之を埋む。六浦大寧寺今二處皆範頼の墓有り。此れを以か範頼の孫為頼外家安達氏を依み其の村吉見を襲う。此墓を顧み為頼建つ所とす。以て追慕の意を表す実葬に非ず。此に於てか、 嗚呼公功有り罪無し、 讒を以て非命に死す。世を挙げて此れを悲しむ。況や其の子孫に於いておや。然らば即ち此の樹剪伐を被らず、能く数百歳の寿を得。蓋し偶然に非ざる也。樹の傍らに旧き小阿弥陀堂有り。このごろ村人相謀り堂に徒り他所に闢く。公園と為し以て都人士来遊に供す。因りて其の縁由を記せしめ以て考古の一助に資すと云う。
明治戊子二月 正四位男爵 細川潤次郎撰文 毛利雙松書」

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