石戸蒲ザクラの今昔 Ⅴ 東光寺の文化財

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Ⅴ 東光寺の文化財

1 東光寺の文化財の概要

❷東光寺板石塔婆群(北本市指定歴史資料)
第49図2 ・ 3はともに寛元四年(一二四六)三月四日の造立で、双碑の関係にある。頂部の山形は鈍角で、二条線はな<頭部の両側に刻みを入れている。銘文は奔放な草書体で、偈は二基とも漢訳経典の写しではなく、『観無量寿経』の一節を抄訳したもので類例がない。よほど学識の高い僧が導師として造立にかかわったものと思われる。主尊であるキリークの字形も特異で、武蔵型にはほとんど見られない特徴である。
同図4は、かつて服部清道(はっとりせいどう)氏によって建長三年(一二五一)と判読されているが、現在では判読は難しい。二条線と両側の刻みをもたず、貞永二年と類似した幡状の区画に阿弥陀三尊を配する。偈には『大無量寿経』の一節を採用し、ついで願文、紀年銘が刻まれる。
同図2~4 ・ 6の四基は形態や製作技法の面から同一の石工による所産と思われる。
同図5・6は年不詳であるが、貞永二年銘と同形のキリークを刻み、一群の中でも初期の作例と思われる。とくに5の年不詳a板石塔婆は側面が一五センチと厚く、貞永のものと同じ石工によって製作された可能性が高い。武蔵型で蓮座を採用した最古の事例となるかもしれない。なお年不詳の二基は銘文が刻まれた形跡がなく、銘を墨書していた可能性があろう。
第50図7・ 8は文応元年(一二六〇)の造立である。それぞれ六月二十三日、七月 日と月日が異なるが、双碑の関係であろう。頭部には二条線を有し、この段階でようやく武蔵型に一般的な形態が採用されている。ともに阿弥陀三尊であるが、再び貞永タイプのキリークが採用されている。銘文は建長例と同じく偈+願文+紀年の配列である。同図9は弘安元年(一二七八)銘で、主尊は荘厳体のキリークを配す。偈は『摩訶止観(まかしかん)』の一節で天台系の影響を示している。
以上、説明してきた板石塔婆は、最近では「板碑」と呼称されることが一般的であるが、ここでは指定名称に従って「板石塔婆」を用いて話を進めていく。
第49図 東光寺板石塔婆群(1)

112×62×8cm
2 寛元四年(1246)銘a

118×50×11cm
3 寛元四年銘b

88×45×14cm
6 年不詳b


110×59×10cm
4 建長三年(1251)銘

160×65×18cm
5 年不詳a


第50図 東光寺板石塔婆群(2)

116×56×8cm
7 分応元年銘a

163×43×9cm
8 分応元年銘b

153×44×6cm
9 弘安元年銘

板石塔婆は鎌倉時代中期から戦国時代末期までの間に流行した石製の供養塔婆である。関東では長瀞町や小川町に産出する緑泥片岩を用材とする武蔵型の板石塔婆が盛んに造立された。とくに埼玉県内は石材の産地を有することもあって、現在では二万七000基もの板石塔婆が確認され、埼玉の中世を象徴する遺物と評価されている。
板石塔婆には、 必ず仏菩薩が梵字や図像で表現されており、造立者はこの仏菩薩を供養し、その功徳によって故人の菩提を弔い、また自身の死後の安穏を期待した。武蔵型の形態的特徴は、山形の頭部と二条の横線を刻むこと、さらに石材の性質を生かして薄く板状を呈している点にある。
東光寺の板石塔婆群は多くが二条線を欠き、板材が厚いのが特徴で、 武蔵型の中では特異な部類に属するであろう。阿弥陀如来を表現するキリークの字形も特異で、この造立を指導した宗教者や製作に当たった石工の系譜に興味がもたれる。
【板石塔婆銘文一覧】
1 貞永二年

      光 明 遍 照
   サ  十 方 世 界
キリーク  念 佛 衆 生
   サク 摂 取 不 捨
      貞永二年大才癸巳正月七日
2 寛元四年a

      十 悪 五 逆
   サ  臨 終 苦 逼
キリーク  教 稱 十 念
   サク 花 開 金 色
      寛元二二年大才丙午三月四日
3 寛元四年b

      卓 乎 池 上
   サ  一 丈 六 像
キリーク  變 現 大 小 
   サク 了 無 定 相
      寛元二二年大才丙午三月四日

4 建長三年

      設 我 得 佛      
      十 方 衆 生
      至 心 信 楽
      欲 生 我 國
   サ  乃 至 十 念
キリーク  若 不 生 者
   サク 不 取 正 覚
      右志者為過去口
      口公聖霊往生極
      楽證大菩提也
      建長三年大才辛亥十月晦日
5 年不詳a

   サ  (蓮座)
キリーク  (蓮座)
   サク (蓮座)
6 年不詳b

   サ
キリーク
   サク


7 文応元年a

      但 聞 佛 名
      二 菩 薩 名
      除 無 量 劫
   サ  生 死 之 罪
キリーク  右志者為過去
   サク 大輔公尊霊出
      離生死往生極
      楽頓證菩提也
      文應元年大才庚申六月廿三日
8 文応元年b

      弥 陀 名 号 相 續 念
      化 佛 菩 薩 眼 前 行
   サ  或 與 花 臺 或 授 手
キリーク  須 臾 令 盡 佛 迎 将
   サク 右志者為覚厳大法師
      往生極楽證大菩提也
      文應元年大才庚申七月 日
9 弘安元年

        諸教所讃多在弥陀
キリーク(蓮座) 弘安元年戊刀五月日
        故以西方而為一住

※銘文は『北本市板碑調査報告書」による。

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