北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

2 地方制度と農民の負担

大化の改新と地方のしくみ
西暦六四五年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、大和朝廷の都・飛鳥(あすか)(奈良県)で、わがままな政治をしていた豪族蘇我(そが)氏を倒した。そして国政を改革し、天皇を中心とする中央集権国家への道を踏み出した。新政権は年号を大化(たいか)としたので、この一連の政治改革を「大化の改新」という。
新政権は翌大化二年(六四六)に、新しい政治の方針を発表した(改新の詔(みことのり))。それは、①皇族・豪族が私有地・私有民をもつことを禁止する(公地公民制(こうちこうみんせい))、②都や国・郡・里などの地方行政のしくみを確立する(国郡里制)ヽ③戸籍をつくり新しい土地制度(班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう))を実施する、④租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)など新しい税の制度を実施する、というものである。それらの基本となるのは、律(りつ)や令(りょう)とよばれる法令で、大宝元年(七〇一)に定められた。そのため、これに基づく新しい国家の体制を律令体制という。

写真21 多摩郡小野郷にあった武蔵国衙跡

(府中市教育委員会提供)

律令体制による国家づくりは、政府ができた当初の政情不安定から、すぐには進まなかった。右で二番目にあげた国郡里制によって、武蔵国にも郡と里も置かれたはずだが、確実な年代は分らない。律令体制が急速に進んだのは、六七二年の壬申(じんしん)の乱を経て、天武(てんむ)天皇の時代に入ってようやく国内が安定してからのことである。天武天皇の十二年(六八三)には諸国の境界が定められ、文武(もんむ)二年(六九八)には諸国に郡司(ぐんじ)がおかれた。大宝元年には、大宝律令(たいほうりつりょう)が定められて、律令制による地方制度はようやく整えられた。大宝三年七月には、引田朝臣祖父(ひきたのあそんおおじ)という人物が武蔵国司(こくし)に任命された。これが、「武蔵国司」が史料にあらわれた最初である。
律令制による地方行政のしくみは、朝廷の定めによって国―郡―里の順になっていた。現在でいえば県―郡―町村が、だいたいこれにあたる。
国は、働き手の数や田畑の多さなどによって大・上・中・下の四等級に区分された。武蔵国は大国とされた。国の政治上の責任者である国司は、中央(都)から派遣された。国の役所は国衙(こくが)といった。武蔵国の国衙は、多磨(摩)郡小野郷(東京都府中市)におかれた。

写真22 「武蔵国足立郡」の文字が記載された平城京二条大路出土の木簡

(奈良国立文化財研究所許可済)


国の下に郡がある(はじめのころは「評(こおり)」と書いた)。武蔵国には、二一の郡がおかれた(久良岐(くらき)・都筑(つづき)・多磨(摩)・橘樹(たちばな)・荏原(えばら)・豊島・足立・新座(にいくら)・高麗(こま)・入間・比企・横見・埼玉・大里・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんざわ)・那珂(なか)・児玉・賀美(かみ)秩父郡)。市域が属した足立郡(埼玉県北足立郡と東京都足立区を合わせた地域)は、荒川(旧入間川))と元荒川・綾瀬川にはさまれた南北に長い地域である。設置された時期ははっきりしないが、記録上にあらわれるのは、平城京(奈良)跡から発見された木簡(もっかん)(木片に墨で書いた文書)が最初である。それには、「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升」と書かれていて、天平(てんぴょう)七年(七三五)十一月と銘が入っている。郡の民政を行ったのは郡司で、地元に長く住んでいる名門の豪族が任命された。
郡の下が里である。一里は五〇戸の集まりをいった。里長には、里内から人望がある者が選ばれた。霊亀(れいき)元年(七一五)以降、里は「郷」に改められ、その下に小里(こざと)の里がおかれた。これで、国郡郷里制となった。例えば、「武蔵国男衾郡(おぶすまぐん)鵜倉(うのくら)郷笠原里」とあらわした。いわば現在の住居表示に当たる。
足立郡には、堀津(ほっつ)・殖田(うえだ)・稲直(いなほ)・郡家(ぐうけ)・発度(ほっと)・大里・余戸(あまるべ)の七郷があった。市域は、現在の鴻巣市・吹上町とともに、余戸郷に属していたという。つまり、「武蔵国足立郡余戸郷」である。

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