北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

2 地方制度と農民の負担

農民の負担
一律令制では、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)が実施された。班田収授法とは、六歳以上の男女に田(口分田(くぶんでん))を与えるというもので、男子には二段、女子はその三分の二、奴婢(ぬひ)にはその三分の一を与えて、農民生活を保障するとともに、税の収入を確保するための制度であった。農民は、六年ごとに作成される戸籍や、毎年つくられる帳面にくわしく登録され、それを基にして、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などさまざまな税や賦役(ふえき)といわれる労役が課せられた。
租は、稲で納める税で、後代の年貢(ねんぐ)に当たる。田一段(たん)(三六〇歩(ぶ))につき二束(そく)二把(わ)と決められた。これは、当時の平均収穫量の約三パーセントだから、税率は比較的低い(例えば江戸時代などは、四〜五割の税率であった)が、他に種々の付加税があった。
庸は、労役であるが、後に物で納めることになる。正丁(せいてい) (二一〜六〇歳の男子)は一年に一〇日間の労役(ろうえき)をするかわりに、麻布二丈六尺を納め、次丁(じてい) (老丁、六一〜六五歳)はその半分を納めた。
調は、その国の特産物を納めるもの。絹・糸・綿・鉄・海産物など三四の品目が決められていた。武蔵国では、和銅六年(七一三)までは布だったが、それ以降は太い糸で織った粗(あら)い絹布にかわった。ほかにも鮒(ふな)・蓮(はす)の実などを納めたという記録がある。
そのほかに労役があった。雑徭(ぞうよう)は、正丁が年に最大六〇日間、国司の命令に従って土木作業などを行う労役である。また仕丁(しちょう)は、政府の命令で五〇戸につき(つまり各郷につき)二人の正丁が選ばれて、三年間の労役に従うものだった。
さらに、兵役(へいえき)もあり、これが最も農民を苦しめた。戸の正丁の三分の一があてられた。兵役には大別して、諸国の軍団に配備される兵士と、衛士(えじ)や防人(さきもり)となる場合があった。
表1 兵士が準備しなければならなかった武器・戎具

弓(ゆみ)・・・・・・・・・・・・・・
弓弦袋(ゆみづるぷくろ)
副弦(そえづる)・・・・・・・・
征箭(そや)・・・・・・・・・・・・
胡錄(やなぐい)・・・・・・・・
太刀(たち)・・・・・・・・・・・・
刀子(かたな)・・・・・・・・・・
礪石(といし)・・・・・・・・・・
閥帽(いがさ)・・・・・・・・・・
飯袋(いいぶくろ)・・・・・・
水甬(みずおけ)・・・・・・・・
塩甬(しおおけ)・・・・・・・・
脛巾(はばき)・・・・・・・・・・
鞋(かわわらぐつ)・・・・・・
(『市史通史編Ⅰ』P366より引用)

軍団は、各国一〇〇〇人とし、国司が統率することになっていた。しかし、実際の指揮官には地元の郡司(ぐんじ)一族から選ばれることが多かったため、軍事訓練をするよりも自分の所有する田畑の耕作に兵士を使うなど、軍隊としての意味をもたなくなってしまう場合が多かった。そのため、延暦(えんりゃく)十一年(七九二)には、郡司の子弟たちからなる健児制(こんでいせい)の採用によって、軍団制は廃止された。
衛士は、都城の警備などにあたる役である。任期は初め一年とされたが、それが守られずに長期間使われることが多かった。そのため、脱走する者も多かった。役についているときの雑徭(ぞうよう)は免除されたが、農民の負担は大きかった。
防人(さきもり)は、中国・朝鮮からの外敵の侵入を防ぐため、筑紫(つくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)など北九州沿岸で守備にあたった兵士である。兵士は東国から派遣されることが多かった。武器(表1)や食糧は自分でもっていかねばならず、行き帰りの日時は役についている期間には含まれず、さらに三年の任期も守られないことが多いなど、負担は最も大きかった。

表2 蝦夷征討のため武蔵国などから徴発された兵員・物資一覧
防人制は八世紀半ばには停止されたが、それにかわって蝦夷地(えぞち)(宮城県以北の東北地方)で開拓にあたる栅戸(きのへ)が登場してきた。蝦夷は、東国より東部・北部に住む原住民を大和朝廷が蔑(いやし)んで呼んだ名である。蝦夷征討は七世紀末に始まり、八世紀初めには出羽国(でわのくに)(山形県・秋田県)や陸奥国(むつのくに)(宮城県・岩手県・青森県)が置かれた。そして、政府から強制的にそれらの土地に移住させられ、栅戸として東北開拓にあたったのが主に東国の人びとだった。霊亀(れいき)元年(七一五)に武蔵など六か国の民一〇〇〇戸が陸奥に送られたのをはじめ、その後の九〇年間に二万人もの人が栅戸として蝦夷地に派遣されている。このうち、武蔵の農民の正確な数は分らないが、多くの記録に武蔵の名が書かれているところからみて、かなり多かったはずである。それとともに、政府は蝦夷征討のための軍事行動を八世紀を通じてしばしば行ったが、それに兵士としてかり出されたのも坂東(ばんどう)(関東)の者が多かった(表2)
年号西暦被徴発国徴発先徴発兵員・軍需物資
和銅2年709諸国出羽柵兵器
天平9年737武蔵・下総等6国陸奥騎兵1000人
天平宝字
2年
758坂東8国騎兵・鎮兵・役夫
8180人
〃 3年759武蔵・下総等7国雄勝
桃生城
軍士器仗
宝亀6年775武蔵等4国出羽鎮兵996人
〃 8年777武蔵・下総等5国出羽甲200領
〃 11年780東海・東山諸国陸奥坂東兵士
 〃 坂東諸国・能登等3国糒3万斛
天応元年781武蔵・下総等6国陸奥穀10万斛
延暦7年788東海・東山・北陸陸奥
糒5万8000斛
 〃 東海・東山・坂東諸国陸奥
多賀城
歩騎5万2800余人
〃 9年790東海・東山糒14万斛・革甲2000領
〃 10 年791諸国鉄甲3000領
 〃 東海・東山諸国征箭
3万4500余具
 〃 坂東諸国糒12万斛
〃 23年804武蔵・下総等7国中山柵糒1万4315斛
米9685斛
元慶2年878武蔵・下総等11国出羽兵士 29人

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