北本の屋敷神 北本の屋敷神

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第2章 北本の屋敷神

第4節 神屋

 1.形態

中丸十丁目の加藤邦太郎家(北中丸ー62)では、 昭和四九年頃まで、「ウジガミ様」を「お仮屋」に祭っていた。
現在の神屋は、ブロックを積んだコンクリート造りであるが、「以前は、四本柱に杉っ皮の屋根を葺いたものだった。柱といってもそこらの木の枝を折ってきたものを掘っ建て柱にしたもので、片流れに屋根が葺けるように針金で組んだ。五十センチと一メートル弱位の広さ。杉皮は材木屋で買ってきたのを使い、 初午の前の日に葺き替えることになってた。杉っ皮は三年はもった。その前はワラだった。」お仮屋の周りの囲いはなく、吹きさらしのかっこうだった。中には黒っぽい、 長径二十センチの「玉石が四~五個入っているだけだった。二つしか見えず、他は埋っていた。」この石は現在ブロックを積み上げた神屋の台の中に入れてあり「息が出来るように」神屋の床にあたる台の上部に穴をあけてある。御幣はたてなかった。周囲に神木というようなものはなかった。わきに柊の木があったのでそこに注連(しめ)飾りを張った。稲荷ではないが初午には赤飯とお米をあげた。初孫が生まれた時にもそうした。正月にはお供え餅をした。「ウジガミ様は分家にはくれない。分けられない。動かすと元の屋敷に帰りたがる。古い分家は別の所から持ってきている。」家例として、 白いものを飼ってはいけないことになっている。ウジガミ様が嫌うからだ。墓地は屋敷の北東三~四百メートルにある太子堂がイッケの墓地で、五畝余ある。

比較的古い形態の神屋〔北中丸ー40〕

石祠〔深井ー36〕

新しい形態の神屋〔北中丸ー71〕


商家にみられる神屋〔本宿ー23〕

堂山の屋敷神〔高尾ー52〕

毎年、新ワラを葺いて作る「お仮屋」が、北中丸では他にもあったことを記憶している人はいた。三~四本竹をアーチ状にまげて土にさし頂上部に稲の新ワラを並べて屋根とする、といった形をしていたらしい。暮に、正月を迎える準備として作りかえたという。北本市内で、 お仮屋について聞くことができたのは北中丸のこの二例のみである。
屋敷神は常駐すると考えるようになった最初の頃の神屋はどのようなものであったのだろうか。市内でみられる古い形態を残しているとみられるものに、屋根もぶ厚い板で作った白木造りのものがある。今日市内に九社残っている。北中丸に四社(北中丸ー20・26・55・63)、古市場に一社(古市場ー11)、下石戸下に二社(下石戸下ー16・40)、荒井に二社(荒井ー26・95)。他に屋敷神ではないが、同じ造りのものに、下石戸下の小川家の稲荷、 花の木の稲荷、石戸宿の八幡社がある。いずれも、今日では、雨屋内に納まっている。

本矢部の屋敷神〔荒井ー45〕

相殿〔北中丸ー57〕

一般に市内の屋敷神の神屋は質素である。(石を積みあげた台はない。)平地に玉石を四隅におき、太めの材木を柱にしてがっしりと組み、屋根は瓦かトタン葺であった。畳四分の一位の広さにすぎない。祭祀器もほとんど何もない方がむしろ多い位で、幣束は輪切りにした大根にさした。この様な姿が昭和の三十年代位までの北本市域で最も普遍的なものであったと思われる。しかも、どの家もが一応、このような他人にみせられる神屋を持つようになったのは、千社参りが盛んであった昭和の十三~四年頃からのようである。これ以前、他人の目にふれる必要のなかった頃は一層質素なもので、半ば朽ちているもの、又、板葺屋根のもの、お仮屋もまだ多く残っていたのであろう。
一方、深井七丁目の清水修一家(深井ー28)には、「嘉永七年(一八五四)再建」の木札があるが、瓦葺で、畳三枚位の床面積のものだったという、他にも、市内各地の有名な「ダイジン(大尽)」、つまり幕末から明治にかけての豪農層のうちには草葺屋根の数坪の社殿、又は、こった細工の神屋を造るものが多かった。
最近、新しく作られている神屋は、ほとんど例外なく、ほっそりとせり上った台上に銅板葺屋根を流れ造りにのせる細身のものである。神屋を石やブロックを積みあげた台の上にのせるのは、「居宅(いたく)の床より屋敷神は上に祭るのが本来のやり方だから」というが、このような神屋が多くつくられるようになったのは母屋新築に伴うもので、せいぜい二十年位前からのことであるから、一種のはやりではないであろうか。
市内で複数の祭神を持つ家は四分の一であるが、多くは相殿である。複数の神々の間に序列がないように、左右等並べる位置にも意味はないようだ。

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