北本のむかしばなし 伝説や昔話

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左甚五郎ひだりじんごろうが一でつくった大堂おおどう

むかし、無量寿院むりょうじゅいん山門さんもんのすぐ東に、八けん(やく 一四・四メートル)四方もある大きなおどうがありました。屋根のあつさが一しゃく(やく三〇センチ)もある草ぶきの大きなお堂でした。これは、左甚五郎ひだりじんごろうという大工だいくの名人が、一夜のうちに三つの大きなお堂をたてた、その一つだと言われています。
左甚五郎は、日光の東照宮とうしょうぐうや上野の寛永寺かんえいじをつくるときにも大きなはたらきをし、そのうでのよさは日本中に知れわたっており、また、ちょうこくの名人でもありました。
日光東照宮には、甚五郎がほったねむねこがあります。そのねこは生きているように見え、おかげで東照宮にはねずみがいない、とさえいわれています。このように有名な甚五郎によって、一夜で三つの大堂おおどうはたてられたのです。
それは江戸時代えどじだいのはじめのころのことでした。作業場は、月の明かりと、こうこうとかがやくかがり火で、昼間のように明るくなっていました。土台を組み、柱を立てる大きなドンドンドーンという音。追いかけるようにかけやで木を打ちこむガンガンガーンという音。げんのうでくぎを打つカンカンカンカンという音などが、あわただしく次々とあとを追いかけます。みるみるうちに大きなおどうのすがたが光の中にうかび上ってきました。
東の空が少しずつしらみ始めるころ、ついに、八けん四方もある大きなお堂が、朝日の無量寿院むりょうじゅいんで、川田谷かわたや(桶川市)で、そして最後さいご丁栢間しもかやま(菖蒲町しょうぶまち)でと、次々に完成かんせいしていきました。
けれども、さすがに大きなお堂だったため、丁栢間のお堂のむねだけは、どうしてもまにあいませんでした。甚五郎じんごろうは、しかたなく自分の道具ばこを、さかさにしてかけておき、むねの代わりにしたと言います。それで、丁栢間の大堂おおどうだけは、遠くから見ると、箱棟はこむねのように見えたそうです。

(1)山門………寺の門のこと。
(2)堂………かみほとけをまつる建物たてもの
(3)左甚五郎………江戸時代えどじだいはじめの建築けんちく彫刻ちょうこくの名人といわれるが、たしかなことは不明ふめいで、伝説的でんせつてき人物と考えられる。
(4)かけや………大型おおがた木槌きづち
(5)げんのう………かなづち。
(6)八間四方………およそ七メートル四方。
(7)むね(棟)………屋根の一番高いところ。屋根の面が交わる部分。大棟おおむね隅棟すみむね箱棟はこむねなどがある。
(8)箱棟………大棟おおむね箱形はこがたにしておおったもの。普通ふつうは木でつくる。

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