北本のむかしばなし この本を利用するにあたって

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二 伝説でんせつ昔話むかしばなし

ここでは、伝説十話と、世間話を三話、創作民話そうさくみんわを一話とりあげ ました。
伝説は、具体的ぐたいてき樹木じゅもくや石、つかなどと直接結ちょくせつむすびつけて語られ、語り手はその言いつたえを事実だとしんじていました。その多くは、人智じんちえた不思議ふしぎかみのなせるわざについての話です。したがって数百年間も伝説を伝えてきた人々は、その内容ないようを心から神をうやまう気持ちを持って信じてきました。ですから、たんなる作り話ではありません。
一方、伝説を不確ふたしかな歴史れきしと考える人もよくいますが、これは間違まちいです。伝説と歴史的事実とはあまり関係かんけいがありません。伝説はそれを伝えてきた人々にとっては、信仰しんこうともいえるものでした。具体的には、それぞれの話の解説かいせつでふれます。
「世間話」も不思議について話されますが、聞く者に多少たしょう疑念ぎねんを起こさせる内容です。話のねらいは、信じるかいなかより、おどき・意外さ・わらいをもとめることにあります。ここでは、「大きなまつの木」のほか、「キツネのよめ入り」と「キツネにかされた話」がのせてあります。
源範頼みなもとののりより亀御前かめごぜん」は、のちにもふれますが、北本に伝えられてきたいくつかの伝説などを合わせて作られた創作民話です。
それでは個々ここの話について、簡単かんたん解説かいせつをします。
さか椿つばきは、くいつえが根づいた話です。実際じっさいに、杭や杖から若芽わかめが出、やがて花がいたのを見た人は、いなかったでしょう。しかし、きゅう荒井村の中岡なかおか祝福しゅくふくするために、この地をおとずれた神がさした杭や杖ですから、根づくことをうたがう人はいなかったのです。
室町時代むろまちじだいから江戸時代えどじだいのころには神やほとけの教えをいて、村から村へ旅する行者ぎょうじゃそうがたくさんいました。このような人たちが土地の木石にまつわる話として語つたのではないかと考えられています。もっとも、後世こうせいの人々は、伝説に歴史との関連性かんれんせいを求めるようになリ合理的ごうりてき解釈かいしゃくをするようになって、この神は、人間ばなれした能力のうりょくを持った歴史上の英雄えいゆうやえらいおぼうさんにかえられていったのでした。このような立派りっぱな人がさした杭や杖なら根づくかもしれないと考えたのです。
左甚五郎ひだりいんごろうが一夜でつくった大堂おおどう一夜堤いちやづつみとは、同じ形の伝説です。とうてい人間技ではできそうもない建造物けんぞうぶつ難工事なんこうじなどに対する、驚きを表現ひょうげんしています。
なお、「一夜堤」をきずいたのは、ここでは鉢形はちがた北条氏邦ほうじょううじくにとされていますが、氏邦が石戸城いしとじょうめたという記録きろくには、しろは落とせなかったとあります。また、このつつみは、豊臣秀吉とよとみひでよし小田原攻おだわらぜめで北条氏とたたかったとき、その一武将ぶしょうが築いたのだという言い伝えもあります。つまり、この話は史実しじつとしては成立せいりつしません。「一夜堤」は伝説ですから、どっちが歴史的事実かということはあまり問題ではありません。
ぼん精霊迎しょうりょうむかえに、高灯篭たかとうろうを立てる風習があります。しかし、提灯ちょうちんもロ —ソクもない時代には、自然木しぜんぼくこずえにのぼりや松明たいまつをくくりつけ、帰ってくる先祖様せんぞさま(精霊)へのみちしるべとしたものと考えられています。「竜燈杉」の伝説は、精霊迎えのあかりを、まつすぎの梢にあげた痕跡こんせきを物語るもので、精霊が天からりてくるとしんじた習俗しゅうぞくのあらわれにほかなりません。
なお、この伝説を伝える高尾の氷川神社ひかわじんじゃ縁起えんぎには、竜が杉の木を登ったのは万治まんじ二年(一六五九)七月十二日のこと、大杉が根もとからたおされたのは元禄げんろく十四年(一七〇一)のこと、としるされています。
「せおわれてきたお地蔵様じぞうさまは、神仏しんぶつ巡行じゅんこう途中とちゅうに重くなり動かなくなる、という形式の伝説です。この伝説が語っていることは、その土地は何もかもお見通しの神仏にえらばれたすばらしい土地、ということです。「あみにかかったお地蔵様」も同様の主旨しゅしの伝説です。
「うめられてしまった石の仁王様におうさまの伝説の意味は、次のようなことと考えられます。百年一日いちじつのごとく平凡へいぼんな日々を送っていた村に、たまたま村外からの客(ここでは石の仁王)がありました。そのとき、村人が大事にしていた牛馬が次々にいなくなるという事件じけんがおこります。人々は村をおそ危難きなんをさけるために、外来の客をいけにえとしていかれるかみし出しました。
「あずきとぎばばあ」といわれた妖怪ようかいは、カッパなどと同様に、 水辺みずべにいた神々が、後世こうせいの人々によりその神性しんせいうたがわれるようになった結果けっか姿すがた、と考えられています。それにしても、あずきとぎばばあとはへんな名前の妖怪です。あずきをとぐのは赤飯せきはんくためで、祭りの準備じゅんびです。本来祭りの物忌ものいみのもつ緊張感きんちょうかん恐怖感きょうふかんに変わってしまったあとに生まれた話だと思われます。
「送りオオカミ」の話は、実際じっさいにあったこと、として話されていますが、これも伝説の一形式です。ひつじおそうオオカミは、遊牧民ゆうぼくみんにはもっとおそれられ、いやがられるけものでしたが、農耕のうこうを中心に生活していた日本では、田畑にがいをなすイノシシやタヌキを退治たいじしてくれる獣として、恐ろしい反面尊敬そんけいもされていました。それで、三峯神社みつみねじんじゃ宝登山ほどさんなどの山の神様のつかわしめとされ、うやまわれてきました。
以上は、伝説です。
「キツネにかされた話」は、きつねがたばこのけむりをきらうこと、話しかけたとたんにフッと消えたこと、よくある話の形です。
「キツネのよめ入り」は、狐火きつねびとも言います。狐やたぬきがこの北本にもたくさんいた昭和のはじめころまでは、冬の暗夜、かなたにぽっぽっとこのような火?がともることがよくあったようです。なぜそのようなことがあったのか本当の原因げんいんはわかりません。しかし、人々はそのような不思議ふしぎ現象げんしょうを狐のしわざとみて「キツネの嫁入り」とか「キツネ火」とびました。
「大きなまつの木」の話は、「なにしろ、そのあたりは棒根ぼうねとよばれている所ですから」と、落語の落ちにも似た部分があります。ここで、わらいをさそえれば成功せいこうなのです。
今日、市内で一般いっぱんに話されている源範頼もなもとののりより亀御前かめごぜんについての話は、『石戸郷土読本いしときょうどどくほん』(石戸尋常高等いしとじんじょうこうとう小学校>編纂へんさん、昭和八年)におさめられている「範頼と蒲桜かばざくら」と「亀御前」の二話にもとづくもののようです。範頼と亀御前の言いつたえは、古くから石戸にありますが、今日のような物語になったのは、『石戸郷土読本』の編者綱島憲次つなしまけんじ氏のふでの力によるところが大きかったようです。
ここに掲載けいさいした「源範頼もなもとののりより亀御前かめごぜん」の話も、『石戸郷土読本』に収められている前記の二話を合わせ一つの文にしたものです。そのさい、綱島氏の原話の主旨しゅしをできるだけ生かすようにつとめながらも、今日の児童生徒じどうせいとにも理解りかいできるように書き直しました。
なお、江戸時代後期えどじだいこうき刊行かんこうされた「新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう」によると、源範頼と亀御前は、父とむすめになっています。

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