北本市史 通史編 自然

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第2章 北本の地質

第3節 沖積層の発達

1 河川の流域に発達する沖積層

市内の沖積低地は、洪積台地が市域を広く占有するために、赤堀川沿いの狭い地域と、荒川左岸の低地、それに台地を刻む開析谷(かいせきこく)とに限られている。
荒川本川の沖積低地(荒川低地)下流域では、五〇〇〇~六〇〇〇年前の縄文海進(じょうもんかいしん)最盛期に川越市仙波(せんば)・上尾市平方付近(ひらかたふきん)にまで海が進入していた。当時の中川低地では、古河(こが)・栗橋・鷲宮(わしのみや)あたりまで海水が入り、満潮時ともなれば栃木県藤岡町付近まで海が達したと考えられ、元荒川流域では白岡町正福院貝塚(しょうふくいんかいづか)・蓮田市貝塚にも奥東京湾の湾入があったと推定されている。
市内の荒川本川左岸の低地(荒川低地)には縄文海進の進入の痕跡は認められずその直接の影響は及んでいないが、荒川低地中流域の珪藻分析(けいそうぶんせき)やボーリング試料を精査した安藤・藤本(一九九〇)は、市域の下流わずか五~六キロメートルの荒川・入間川(いるまがわ)合流点付近にまで縄文海進の海水の影響が直接及んだことを明らかにした。
さらに安藤・藤本(一九九〇)は、有楽町層堆積時代の急激な海面の上昇期に多量の土砂が流入した荒川本川低地は、徐々に海域化が進んで次第に安定した海域へと変わってきたことを明らかにするとともに、縄文海進の海退前には荒川本流の掃流物質が減少し、汽水と海水の要素を併わせ持った静かな内湾環境が整っていたと推論した。
市域東部の赤堀川流域の沖植低地の形成過程は、本地域に面した桶川市の『後谷遺跡(うしろやいせき)発掘調査報告書』(一九七九)や北本市立学校給食センターのボーリング柱状図から次のように推察できる(自然Pニニ~二三)。
洪積世末期から沖積世初めの低海水準期にローム台地が侵食作用を受けて浅い開析谷(かいせきこく)が発達したが、縄文海進の海面上昇期に河川の旺盛(おうせい)な運搬堆積作用が働き、この谷の中に砂礫の堆積を見た。しかし、縄文海進が終了した後比較的海水面が安定すると、河川の堆積作用は穏(おだや)かになり、そのため、周辺台地から静かに流れこむシルトや粘土や泥炭が狭い赤堀川の開析谷を埋積し、縄文晩期以後に沼や沼沢地状の沖積低地が形成された。以後、赤堀川流域の沼沢地は、ごく近年干拓(かんたく)が行われるまでずっと長い間、その姿をとどめてきた。

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