北本市史 通史編 自然

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第6章 北本の生物

第1節 北本市の生物概観

北本市が位置する大宮台地は、東西を綾瀬川および荒川で区切られ、南北は鴻巣市から浦和市に至る標高一〇~三〇メートルの細長い地形である。
大宮台地で標高が最も高いのは市域西部の高尾・荒井付近で、海抜は約三〇メートルである。北本市はそこから東方に向かうにつれて徐々に標高を下げ、赤堀川から加須(かぞ)・中川低地へと続く。市域西部の荒井・高尾・石戸宿付近の地形は荒川低地に面しており、谷地が複雑に入り込み、各所に湧水(ゆうすい)が存在して低層湿原が発達し、その周囲はアカマツ——ヒサカキ群集に属(ぞく)するクヌギ・コナラからなる斜面林が連続している。
こうした自然環境を注意してみると、市域では西部地域の自然景観が優(すぐ)れており、水生および陸生の動植物が繁殖(はんしょく)するのに適した条件が備わっている。このことは埼玉県が実施した荒川総合調査(一九八三~一九八六)および埼玉昆虫談話会が実施した石戸宿の昆虫類調査(一九八四~一九八六)などの結果からも明らかで、そこに息づく生物的自然は、大宮台地のなかで最も豊かである。
現在の市内各地で見られる生物が、いつごろからここに住みついたかを推定してみる。
氷河時代の関東平野は亜寒帯性(あかんたいせい)の動植物で占(し)められていた。その後、おそらく今から一万二〇〇〇年前に最後の氷期が終わり、一万年前ごろまで続いた富士山・箱根山などの噴火は、多量の火山灰を関東地方に堆積させた。この火山灰土が赤土と呼ばれる関東ローム層で、土の粒子(りゅうし)がごく小さく、粘土状で水の浸透率が少ない。そのため大宮台地のほとんどの部分は、比較的最近まで耕作困難な原野であったと思われる。

写真3 北本市内の雑木林

その後、さらに気温は温暖化し、縄文時代(じょうもんじだい)になると谷地や川沿いの斜面に森林が発達し、南方から暖地性の動物が陸伝いに移住して来られるようになる。
縄文海進は加須・中川低地では関東平野のかなり北方まで及んだが、市西部の荒川低地側は現在の川越市および川島町や桶川市の南部くらいまでで、市域まで達することはなかった。したがって、陸続きの関東北部や比企丘陵・秩父山地との間で陸生生物の交流はかなり盛んであったと思われる。この豊かな自然の恵みの中で、当時の人々が採集・狩猟により生活していた跡が台地上の各地で発見されている。
縄文時代後期から弥生時代には、台地上の草原や林は、人間の農耕文化の発達にともない焼き払われあるいは開墾(かいこん)され、耕地として利用されるようになったが、地力が低下すると放置された。しかし、その結果生じた荒れ地は植物遷移(せんい)が割合に早く進み、数十年後には二次林としての雑木林を形成し、人々の生活に利用できるようになる。林の樹枝は薪炭(しんたん)として燃料用に、柴や木の葉は農耕に有効な有機肥料として活用した。こうして昭和中期までの長期にわたる農業を営むのに欠かせない計画的な森林経営が行われるようになった。農業経営のための雑木林の維持管理が恒常的に行われるようになると、そこには今も見られるような広葉落葉樹林特有の下草や小動物が繁栄するようになる。
荒川低地や綾瀬川(あやせがわ)流域での魚介類(ぎょかいるい)の採取は、かなり古くから行われた。氾濫原(はんらんげん)の低湿地にはハンノキやヤナギ類などの林が成立するか、マコモやヨシなどの湿地生植物が群落を作るのが普通である。その近くを大変な努力をして開墾し水田稲作を営むようになる。水田には在来の湿生植物のほかに南方から稲の種などに混じって入って来た水田雑草が生え始め、稲作地帯特有の各種の動植物が定着するようになった。
河川敷や谷地には洪水により肥料に富む泥土が堆積するが、肥料分の少ない瘦(や)せた関東ローム層からなる台地上の畑に、その泥土を人力により肥料として運ぶ客土(きゃくど)作業が、市域の西部地域で盛んに行われた記録が残っている。このようにして、現在の市域でみられる生物相の基盤が形成されてきたのである。
昭和二十年代までの市域は、雑木林の間に耕作地があり、東西の低地には水田が存在する豊かな農村地帯であった。石戸宿には国の農事試験場が設置され、畑作植物の研究が行われてきたが、昭和末期の都市化に伴ない閉鎖され、現在その跡地は北里研究所メディカルセンター病院となっている。その北側から東方に広がる谷地と斜面林は、今も当時の面影を強く残しており、県の北本自然観察公園として活用されている。
昭和三十年代後半から、首都通勤圏としてJR北本駅を中心とする都市化の進展は著しいものがある。さらにエネルギー革命と化学肥料を使用する近代農業は、後継者不足も加わって永く続いた雑木林の利用価値を極端に低くしほとんど手入れをされないまま放置されるようになった。また、かなりの雑木林が市域の都市化に伴い伐採される運命をたどった。
市内から雜木林が減少すると、市民の間から林の存在価値が見直されるようになり、平成四年(一九九二)には、JR高崎線沿いに残っている雑木林の一部を市民の林として保全することが議決され、自然とのふれあい、騒音・大気汚染の緩和(かんわ)、災害防止等の効用などが理解されるようになった。このような経過をたどって所どころに林が残り、寺社林や公園とともにみじかな自然を観察するのに適した環境がある程度整い始めた。市の西部には今もかなり豊かな自然が現存しているので、今後はそこの自然環境の保全と、可能な限りの自然の創造が期待される。

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