北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第2節 幕府政治と御家人

足立氏の館跡と所領
遠元の館跡としては、大宮市植田谷(小名古里)の遗構(あたちとの屋敷)や桶川市末広二丁目、同川田谷の三ツ木城跡、同神明一丁目付近の地が伝えられている。このうち、大宮市植田谷の地は、古くは殖田郷に属し、北と東を鴨川に囲まれ、わずかに周辺より微高地となっているが、荒川の沖積低地であり、ほぼ一ヘクタール広さがある。同地の江戸時代の名主小島家に伝わる寛永十九年(一六四二)霜月十四日の文書の中に「あだちとのの御屋敷壱町余程御座候処ニ」という文言がある。同家では『新記』などによると安達盛長の子孫と伝えるが、これは足立遠元の誤りと考えられる。現在館跡と思われる所には足立神社が祀られているが、明らかではない。現在、この西側は賀茂川団地となっている。
桶川市末広二丁目は、通称一本杉といわれる地で、足立郡のほぼ中央に位置し、大宮台地上の平坦地である。かって一本の老杉があり、根元に文化六年(一八〇九)再建の石祠があったというが、現在はいずれも見当らない。また堀跡もなく館跡らしいものは認められない。川田谷の三ツ木城跡は『新記』に「郡内別所村無蛍寺の縁起には、足立右馬允が居館なりと云」とあるが、現在に残る堀や土塁の形態は戦国期のものと考えられ、足立氏時代のものとは断定できない。あるいは足立氏の一族河田谷氏の城館跡かもしれない。神明一丁目付近は、かってこの辺りの雜木林に堀や池があり、文化四年(一八〇七)再建の石祠もあったが、現在は住宅地になり、館跡を偲ぶよすがもない。

写真24 伝足立氏館跡 桶川市

このように足立氏館跡と伝える地が、数か所あるが、いずれが真の遠元館跡か確定できるものはない。或いは所領経営の拠点とされた「営所」の如きものが各地にあったのかも知れない。足立郡内には足立氏以外の武士も存在しており、足立氏が郡内一円を所領していたわけではないが、足立氏が郡名を称していた秩父氏・比企氏・吉見氏に匹敵する有力武士であったことは認めてよいであろう。なお、「足立氏系図」に見える遠元の子息の傍注に「淵江田」(東京都足立区)、「安須吉」(上尾市畦吉)、「河田谷」(桶川市川田谷)、「平柳」(川口市元郷)の地名が氏の名として記されているが、これは同地が足立氏の所領であったことを推測させる。また、室町前期に「足立大炊助跡」と見える「殖竹郷」(大宮市植竹郷)等も(「円覚寺黄梅院文書」応永四年七月二十日足利氏満寄進状)同様である。これ以外に足立氏が「領掌する郡郷」に関わる地名を明示できないが、館跡伝承地も含め郡内の過半は遠元の所領だったろう。
なお、守護・地頭制が発足すると、足立氏は足立郡地頭職になったと思われるが、弘安五年(一二八二)幕府は足立郡地頭職に関して「当郡公領たるか、将又(はたまた)私領なるや否や、不審の間、平家没収の御領の注文を被見の処、当郡の事、彼の注文に載(の)せ畢(おわ)んぬ、公領たるの条分明なり」(『新編追加』)とし、足立郡が荘園(私領)ではなく、平家没官領として国衙支配下の国衙領(公領)だったとしている。

<< 前のページに戻る