北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

支城領支配と北本
戦国時代には、争乱の過程で成長してきた地域的領主の支配領域を中心に「領」という支配の範囲が存在していた。武蔵国では、岩付領・松山領・滝山領・羽生領等が知られる。後北条氏は、これらの地域を支配下においた後、その地域的な支配体制を再編成して支城領制としたのであった。これらは、旧来の国や郡の範囲とは異なり、各地の城郭を中心に構成されていた。
後北条氏は、その子弟を各地の有力領主の養子として支城主に配置し、支城領支配を開始した。武蔵国多摩郡の大石氏の名跡を継いで滝山城主(東京都八王子市)となった北条氏照(氏康の子息)、および北武蔵の有力領主藤田康邦の養子として、鉢形城主(大里郡寄居町)となった北条氏邦(氏照の弟)が特に著名である。各地の支城は、独自の支配領域としての「領」と、軍事組織としての「衆」を持ち、支城主はそれぞれ独自の印判状を発布して、後北条氏当主からはある程度独立した領域支配を行っていた。後北条氏の領国は、「領」を単位とする領国としての性格を持ち、特に地域領主の勢力が強い北武蔵ではこの傾向は顕著であった。支城領制は、この後永禄年(一五五八~七〇)以降徐々に形成され、天正年間(一五七三~九二)には確立した。
市域は岩付領に属し、太田氏の支配を受けており、北部は成田氏の忍(おし)領、西部は後北条氏の直轄支配する松山領と河越領に囲まれていた。北条氏康は、後に上田朝直を松山城主に配置して間接支配にきりかえている。また永禄二年(一五五九)当時、河越城には城代大道寺周勝が配置され、後北条氏の直臣からなる河越衆二十一人を指揮して駐屯(ちゅうとん)していた。河越城には戦国末期まで城主は置かれず、この地域は後北条当主の直籍領であった。なお、岩付領の東部には市域に近接して、小田朝興および忍城主成田氏支配下の騎西領と佐々木氏の菖蒲領が存在していた。特に菖蒲領については、天正十二年(一五八四)三月十一日に岩付城主太田氏房が家臣の宮城為業(ためなり)に訴訟の裁決を伝えた印判状に見えており(「豊嶋宮城文書」)、当時の古文書のうえからも所在を確認できる。

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