北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

太田氏房・成田氏長小田原城へ
天正十八年(一五九〇)の初めに、徳川家康・前田利家等各地の大名に関東出陣を命じた豊臣秀吉は、三月一日に京都を進発した。豊臣の大軍は三月中に伊豆国に侵入、早くも四月三日ごろには小田原城を包囲している。これに呼応して、北陸から信濃国を経て南下した、前田利家と上杉景勝の軍勢も、三月下旬には上野国松井田城(群馬県碓氷郡松井田町)に着陣した。

図21 小田原役配陣図

(『国史大辞典』より引用)

これに対して後北条氏は、まず領国内の各地から一族・重臣や他国衆の部将を総動員して小田原城に籠城(ろうじょう)させ、岩付城主太田氏房と忍城主成田氏長も参陣している。『北条記』によれば、氏房は春日左衛門尉(さえもんのじょう)・河合出羽守・細谷氏(比企郡井草の領主、資満か)等を引率して三〇〇〇余人で籠城、小田原城の久野口・井細田口を守っていた。また成田氏長は、弟泰親と共に成田氏一族や当麻豊後守等五〇〇余人を率い、八王子城主北条氏照の軍勢に属して竹ノ花口を守ったという。なお、松山城主上田憲定も、後北条氏の重臣松田憲秀に指揮されて同城箱根口・宮城野口を守備していたと伝えられる。
いつぼう、後北条氏は、各地の支城にも城兵を配置して領国の防衛をはかっていた。その軍勢を記した「北条家人数覚書」(「毛利家文書」)によると、本城と各支城に配置された城兵は三万四二五〇人、太田氏房の軍勢は一五〇〇人で岩付・松山両城を守り、忍城にも一〇〇〇人が籠城したという。それぞれ、伊達房実・成田泰季等の重臣が指揮した。氏房配下の将兵は、あわせると四五〇〇人と伝えられる。
小田原城を守った氏房は奮戦し、四月十八日には太田氏の一族の潮田(うしおだ)資忠・資勝父子(足立郡寿能城主)が戦死している(「太田潮田系図」)。また氏房の命により、家臣の広沢尾張守が敵将蒲生氏郷)がもううじさと)の軍に夜襲をかけたという(『北条記』)。しかし、全国の諸大名を動員した豊臣秀吉の大軍を前に北条氏政・氏直父子の劣勢は明らかで、四月二十日に河越城代大道寺政繁の守る上野国松井田城が開城、翌二十一日には相模国玉縄城主(鎌倉市)北条氏勝までもが秀吉に降服している。秀吉は、小田原を包囲するいっぽう各地の支城に部将を派遣して攻略したため、これらは次々に陥落した。松山城も上野から南下した前田利家らの北国勢に攻められ、五月のなかばごろまでには開城している。そのため、残っている後北条氏の属城は、八王子・鉢形・岩付・忍城等わずか数か所となった。

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