北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第1節 村落と農民生活

北本の城館跡
石戸城跡
北足立郡内最大の城であり、北条・武田・上杉の戦国大名をはじめ、上田氏・太田氏ら北武蔵の戦国武将とも関係をもった中世後期の代表的な城である。現況は中央に道路が貫通している他、多くは山林・宅地・耕地である。
立地は大宮台地の北西端にあり、西側は荒川の崖線が走り、北側から東側にかけても深い樹枝状の谷が入り込んでおり、やはり急峻(きゅうしゅん)な崖に画されている。したがって石戸城は、三方を高い崖に囲まれた自然の要害の地に築かれたのである。城の建物が築かれた台地面はおおむね平坦であり、標高は二四〜二六メ—トルである。いっぽう荒川(江戸時代初期までは和田吉野川)の旧流路は、城跡の西側直下を蛇行して流れていたとみられ、現在でもその流路跡が断続的に残存している。北側から東側へ入り込んだ谷は、荒川の支谷で城跡の北側で谷筋を分枝しており、谷幅は谷底で五〇〜一〇〇メートルある。この谷は現在泥深い湿田となっているが、在城のころは水濠(みずぼり)であった可能性がつよい。現谷底面の標高は一三〜一四メ—トルで、台地上との比高が一三メ —トルもあって、大宮台地に刻まれた谷のなかでも最も深い谷であるということができる。
荒川越しに三方に眺望(ちょうぼう)が優れ、西方は吉見町から東松山市など比企地方を一望のもとに見渡せ、その彼方には秩父山地を遠望することができる。南方には川越市方面の武蔵野台地を、そして北方には荒川中流域越しに群馬県の西部方面の山々も望むことができる。近在の城との位置関係については、石戸城の本城である岩槻城が南東一九キロメートル隔てた位置にあり、また敵対関係にあった松山城は西北西へ約八キロメ —トルに位置する。河越城は南方約一〇キロメートル、忍城は北方一五キロメートルの所にある。北条氏の支城鉢形(はちがた)城は、北西へ三〇キロメートル隔てて築かれていた。
縄張形態は連郭(れんかく)式で、台地の北端部から順次南側に郭(くるわ)を設けている。遣構は、土塁跡・堀跡が断続的に残っているが、部分的発掘調査により若干の所見も得ている。
本郭(ほんぐるわ)は、北側先端部の東西約一ニ〇メ—トル、南北約八〇メートルであったとみられ、その西半分が一区画、東半分が二区画にそれぞれ分割されていたようである。中央部に方約二〇メートル、高さ約二メートルの土壇が築かれている。土壇は黒色土 ・ローム・砂岩ブロツクを含む土層を積んで搗(つ)き固めて構築している。物見櫓(ものみやぐら)跡であろう。本郭の三つの小郭は、土塁と堀で囲まれていたと推定される。土壇の北側にはY字状の堀があり、台地肩部に沿って途中クランクして延びる。本郭の南側には東西に走る堀があり、城域を二つに分けている。この堀は、台地中央部から東にかけては明瞭に観察できるが、西側は不明瞭である。本郭の西側にこの堀と平行する堀を発掘調査で検出しており、さらに別の郭の展開が考えられる。本郭の北側と東側に腰郭があったとみられ、一段下がって平らな部分が幅数メートルから一五メートルにわたって廻っている。東側の特に広くなっている部分には、井戸跡と伝える窪地がある。本郭の南側の部分がニノ郭である。そのほか郭と推定できる所としては、南西端に堀で囲まれた四〇X三〇メートルの部分をあげることができる。西側は浸食により崩壊しているが、南側には高さ約一メートルの土塁も走っている。この部分は、元禄九年(一六九六)の絵図(写真54)でも郭として描かれている。この郭の東方二〇メートルに方形の窪地がある。これは、堀の連結部または大井戸跡とみられる。三ノ郭は、東西に三つの郭が並んでいる。東側の郭は、ニノ郭までのびている。絵図によれば、三ノ郭の南側の外郭線には折邪(おりひずみ)のある深い空堀(からぼり)と土塁があったようである。
また、絵図によれば、石戸宿の家並が城の南方に建並んでいる。地元には現在も元禄期(一六八八〜一七〇四)の面影を残しているが、これは石戸城の根小屋の流れをくむ集落ではないかと察せられ、ことによると集落防衛の意味で、集落の南のはずれにも土塁や堀が築造されていたかもしれない。城域は定かではないが、築城当時は三ノ郭までで約四万平方メートル(四町)ぐらいであったろうか。柵列まで含めると約五万平方メートル、そして最終的には集落まで含めた総構えが二〇万平方メートル以上に及ぶ規模となったのではないかと推定する。
当城の歴史としては、大永五年(一五二五)岩付城主太田資頼が、家臣渋江三郎の北条氏綱への内通により岩付城を追われ、石戸城に逃れている(『新記』)。下って永禄年間(一五七三〜九二)の北条氏康・上田朝直・太田資正との松山城争奪をめぐって、本城は太田氏にとって重要な向城となっていた。『関八州古戦録』には永禄五年(一五六二)、北条氏政の下知を受けた鉢形城主北条氏邦が秩父・鉢形勢を率いて「足(石)戸ノ碧(とりで)」を攻撃したことを記しているが定かでない。また、この戦いの時に氏邦が石戸城北側の深田に一夜にして土橋を築き城に攻めのぼったという伝説があり、「一夜堤」と呼ばれる堤跡も残っているが、『関八州古戦録』などの記述をもとに後世つくられた伝承であろう。同六年二月には、北条・武田の大軍に囲まれた松山城の後詰めに長駆越山して駆けつけた上杉謙信が石戸城に到着しているが、その甲斐もなく、松山城は落城している(上杉輝虎書状)。
石戸城の築城年代は、縄張り形態からして室町時代後期もしくは戦国時代であると推察される。このときの築城者は『新記』に藤田八右衛門とあり、北武蔵の豪族藤田氏の一族であろうか。藤田氏は山内上杉氏に仕え、後に康邦の時、北条氏邦を聲とし、その実権を与えている。上杉氏に仕えていた時、一門の八郎右衛門が主君の命により石戸城を築いた可能性はある。また、太田資頼の入城後、後北条氏の攻撃に備えて防衛の縄張りを施工したことも考えられる。

図22 北本市周辺の城館跡分布図

(『市史古代・中世』P347より作成)

【北本さんぽでの紹介】

『北本さんぽ第19回 鎌倉街道をゆく(2) 石戸城跡』

(8:00辺りから)
上手館跡
古市場一丁目から宮内五丁目にかけて所在する。館跡として認識されるに至ったのは最近のことである。館の名称は、上手地区に所在すること、地名「ウワデ」が館に由来する地名であろうと想定されることによる。地形的には大宮台地の北東部にあって、北側と西側には比高差ニメートルの浅い樹枝状の谷がのびてきている。谷幅は北側がー〇〇メ —トル、西側がハ〇メートルである。館跡内部の地表標高は一六メートル前後である。付近の土地利用は、館跡内が雑木林・宅地・工場であるが、周辺の谷地部分は水田となっている。水系的には赤堀川水系の谷田川(谷田用水)に属する。この谷田川は赤堀川の支流で、赤堀川が低地を流れるのに対し、谷田川は西縁を流れている。上手館跡は、赤堀川低地から西方へ分岐した枝谷の南側に立地している。交通上は旧の岩槻街道から約二〇〇メートル北へ離れた地点である。
遣構は、中心と考える郭の土塁と堀が一部残っている。土塁は郭の西南縁に一本と、その南端近くから北東方向へ走るー本の計二本で、L字形に残存している。西南縁に走る土塁は下幅約六メ ートル、上幅二メートル、高さ一〜一・四メートル、長さ約七五メートルである。南側の土塁は、幅・高さとも西南縁の土塁と同規格で、長さは約二六メートルである。西南縁の土塁は、西側の谷の崖線に築かれているので、谷底から高さを測ると約三メートルの高さとなる。これらの土塁のほか、昭和二十二年(一九四七)撮影の航空写真によると、郭の北側に北東方向へ走る二本の土塁らしき地ぶくれが走っている。そのうちの一本は、北側の谷の崖線に沿って西南縁の土塁から東北に約一五〇メートルのび、他の一本の土塁の可能性については、現在の航空測燈図からもその形跡を示す等高線が走っていることから窺(うかがう)うことができる。堀は、郭の北側を走るニ本の土塁の間に平行しているものである。深さは〇・五〜一メートル、幅三〜四メ—トル、長さ約一〇〇メートルである。昭和二十二年の航空写真でも存在を確認することができ、現況でもそれらしき凹みを一条観察することができる。本郭と考えられる部分は、東西一五〇メ —トル、南北約一〇〇メ—トルの矩(のり)形をなし、その北側に約二〇メートル幅の細長い帯郭のような空間をもっている。また、館跡の東方一〇〇メートルに、台地が赤堀川低地へ円形状に突出した地形が存在している。あるいは出丸であろうか。
当館跡に係わる古記録としては、江戸時代後期の『武蔵志』に「古市場古塁 古市場村二在 地形西北深田 東南平地ナリ 城主不詳」とあるのが唯一で、築造年代・居館者は不明である。土塁の囲郭形態が一〜二町の方形囲郭という古い形態をとっていることから、中世前期の築造と推定する。
加藤氏館跡(幸左衛門屋敷跡)
中丸八丁目に所在する。『新記』の下中丸の項に「旧家、幸左衛門」と記載する屋敷跡である。地形的には、大宮台地の稜央部の東側にあって、わずかに緩傾斜する地形が平坦に転じた部分にある。この転換地帯に綾瀬川水系の浅い樹枝状の台地谷が微低地を掘り刻んでいる。この徴低地は、館跡の西側と東方に入り込んでおり、現在まで水田が営まれてきた。館跡内の標高は一七〜一ハメートル、微低地で一六・五メートルある。付近の土地利用は田・畑がまだ多く、宅地・屋敷林の部分もある。この館跡の領域と考えられる北側と西側には、数十メ—トルにわたって堀跡とみられる溝状の窪地が走っており、当所の加藤氏も「これは構え堀であって、昭和二十年ころまでは、もっと良く残存していた」と述べている。現在観察されるこの遺構は幅約五メートル、深さ一メートルあり、北側で長さ四〇メートル、西側では三〇メートルである。北側の堀は安養院の裏側へものびている形跡があるが土塁の存在は確認できない。昭和二十二年撮影の航空写真によれば、畑を中にして箕輪(みのわ)型に平地林が残存し、西側はあたかも二本の土塁が残存しているように映っている。この写真によれば、やはり安養院も館跡とみられる領域内に入っている。館跡の規模は、内郭が一町四方、外郭まで含めると二町四方くらいになるものと推量する。居館者は幸左衛門の祖先である加藤修理亮宗安と伝え、彼は岩付城の太田氏に従った「鴻巣七騎」の一人であり、また、彼の父は太田氏に仕えた小池長門守(ながとのかみ)であったという。伝承からは室町時代に築かれ、その後半すなわち戦国時代(十六世紀)に最も多く使用された館と推定する。
八幡館跡(伝伊奈氏代官蔵屋敷跡)
本宿五丁目から山中二丁目にかけて所在している。現況は雑木林を中心としている。幅約五メートル、深さ約〇・七メートルの空堀が約六〇メートルにわたり東西方向に遣存している。また、昭和二十三年撮影の航空写真には、この林の南方二〇〇メートルに、土塁と見られる帯状の土地が鍵(かぎ)形に囲んでいる所の存在することを読みとることができる。伊奈氏が居館したとの伝承があり、戦国時代末期から江戸時代初期に築いた館と推定する。
大宮館跡
高尾六丁目に所在する。縄文土器片や埴輪片が散布(さんぷ)し、古墳の石室材である凝灰岩(ぎょうかいがん)も墓地の一角にあり、阿弥陀堂遣跡(原始P三五二)と呼称している。さらに板碑も多く所在し(古代・中世P三八七)、中世関係遣構の埋没を予想していた他、近世には泉蔵院(明治初年廃寺)が所在していたので、近世の寺院に係わる遺構の所在も予想していた遣跡である。現況は阿弥陀堂と墓地、宅地・農地、一部が藪(やぶ)である。平成四・五年(一九九一〜九二)に発掘調査を実施し、古墳の周溝や古墳時代・平安時代の集落跡、中世の堀を検出した。堀は寺院の構堀(かまえぼり)にしては規模が大きく、館に伴う堀である。当該地に〈大宮〉の小字名があり、その地名により「大宮館跡」と命名した。立地は、西に向かって突出した舌状台地上に位置している。標高は約三二メートルと大宮台地の最高部に占地し、西側は荒川によって浸食され、沖積地(ちゅうせきち)との比高差は約一五メートルの急崖をなしている。北と南側にも谷が入って舌状を呈している。

写真78 大宮館堀跡 高尾

大宮館に伴う堀は外堀と内堀およびその他の二本を検出した。外堀は確認面で上幅四・一メートル 深さニメートルである。断面形は、平坦な底部から外傾して立ち上がる「箱薬研堀(はこやげんぼり)」である。一部を掘り残して地山のままとし、幅二・ニメートルの土橋としている。内堀までは約三一メートルあり、郭として機能していたものであろう。内堀は上幅〇・ハ〜一 ・一メートル、深さ〇・七メ—トルである。幅の狭い堀であるが、外堀と平行して掘削しており、加えて土橋をまっすぐ北へ進んだ辺りの内堀にも土橋が想定でき、外堀と内堀は同時に機能していたことを知ることが可能である。
近世の高尾河岸は、大宮館跡のほぼ直下に位置し、荒川(旧和田吉野川)の通行を掌握することも重要な目的であったろう。また、時期的に石戸宿の堀ノ内館と同時存在となる。『新記』は、石戸宿の東光寺と同じ亀御前の伝承、石戸頼兼の名、阿弥陀堂を石戸宿から移転したことなどを記録している。石戸宿の堀ノ内館と密接な関係下にあったことを窺わせる。
大宮館跡に伴う出土品は少ないが、青磁片や宋銭「咸平元宝」などが堀跡から出土した。青磁片(巻頭図版)は、中国竜泉窯(りゅうせんよう)系の劃花文碗(かつかもんわん)で、十二世紀後半から十三世紀前半の製品である。こうした優品は、伝世することが多いが、十三世紀にはすでに館を構えていたものと推定する。現在となっては居館者は無論、館が在ったことすら伝わっていないが、当時輸入量も少なく高価であったこうした見事な青磁が持ち込まれているのを見ると、大宮館の居館者は侮れない力を持つていたことを窺い知ることができる。
その他の館跡
『新記』に記述があるものの、所在地を特定できない館跡や、地域に伝承はあるものの地上に遺構が遺存していない館跡が幾つかある。深井地区の「対馬屋敷跡」をはじめ、宮内地区の「大島大炊亮屋敷跡」「大島大膳助屋敷跡」「矢部新右衛門屋敷跡」「矢部兵部屋敷跡」「小川図書屋敷跡」などである。

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