北本市史 通史編 近世
第1章 江戸幕府の成立と北本市域
第3節 本宿と鴻巣宿
1 石戸宿から中山道
宿駅の設置慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いによって全国を統一した家康は、翌六年に東海道、 同七年には中山道に宿駅を設置して、江戸と京都・大坂の連絡を重視した。これは覇者としての全国支配のためで、それまで各領国ごとに設置されていた宿駅を、徳川氏の支配下に置くことでもあった。さらに奥州・日光・甲州の道中へも宿駅を設置して、いわゆる五街道を中心とした宿駅制が展開されるのである。
市域には一時的ではあるが、中山道の宿駅があったことを『新記』は伝えている。同書によれば、初期の鴻巣宿は本宿村に設置されたが、やがて鴻巣宿へ移動したとある。このことについては、次項で改めて触れるが、慶長七年(一六〇二)六月、熊谷宿へは次のような書状が出されている(『県史資料編一五』№二)
(一)熊谷より上りは深谷宿まで、一駄四〇貫目で継送料金は永楽銭(えいらくせん)八文、同様に下りは鴻巣宿まで一ニ文
(一)人が乗って荷物をつける場合の荷物(乗尻(のりじり))は一八貫目を限度とし、少量の荷物であっても相当の駄賃を支払うこと
(一)びた(鐚)銭は、六文出永楽銭一文とする。
したがって、鴻巣宿は上り熊谷宿、下り桶川宿へ継ぎ送ることになるが、このころの板橋から鴻巣までの各宿駅の設置を明示する史料が乏しく、後世に記された記録などに依存せざるを得ない。
中山道六九宿のすべてが慶長七年に設置されたわけでなく、後年に設置された宿駅も少なくない。たとえば蕨宿は慶長十七年ごろ新宿として設置され、 伏見宿に至っては元禄七年(一六九四)の設置であった。また初期に設置された宿は、鴻巣宿のように江戸時代を通じて同一場所にあったとは限らず、街道の改修や宿駅の整備などによって移動することもあった。
こうして設置された宿駅間の距離を、江戸時代初期の慶安二~三年(一六四九~一六五〇)に作成されたといわれる『正保田園簿』と、江戸時代後期の天保十二年(一八四一)ころの作成である『中山道宿村大概帳』によって、板橋から熊谷までを示すと次のようになる。
板橋 | 蕨 | 浦和 | 大宮 | 上尾 | 桶川 | 鴻巣 | 熊谷 | |
正保田園簿 | 二里半 | 一里三丁 | 一里九丁 | 二里一〇丁 | 三〇丁 | 二里 | 三里二九丁 | |
宿村大概帳 | 二里一〇丁 | 一里一四丁 | 一里一〇丁 | 二里 | 三四丁 | 一里三〇丁 | 四里六丁四〇間 |