北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

一村の概況
第一章の表2は、市域の村々における領主の変遷について『武蔵田園簿』(十七世紀前半)、『元禄郷帳』(十八世紀初頭の成立)、「武蔵国改革組合村々石高」(十九世紀前半)、『旧高旧領取調帳』(十九世紀後半)をもとに作成したものである。これを見ると、近世の市域は幕府領・旗本領・寺社領からなるが、元禄以降については、ほとんどが旗本領となり、以後あまり大きな変動は見られない。また、村数は正保年間(一六四四~一六四八)には一四か村、元禄年間(一六八八~一七〇四)には一八か村、明治元年(ー八六八)には一五か村で多少の分合がみられた。江戸期以降の村々の分合状況は、表20のとおりである。
ところで、「武蔵国改革組合村々石高」(『県史資料編一四』付録)を見ると、下石戸下村の牧野八太夫知行所が高二九七石で前後と比べると高一〇〇石の減少となっており、逆に本宿村に牧野八太夫知行所として高ー〇〇石(第一章表2参照)が見える。これについては、『郡村誌』本宿村の項を見ると「享保十六年(一七三一)牧野大内蔵の采地(さいち)高ー〇〇石は、下石戸下村より分裂して本村の持添となりしか、明治三年(一八七〇)旧に復し下石戸下村に属す」と記されている。この間の事情については不明であるが、この分の検地帳(岡野正家一三寛文七年検地帳からの書き抜き)の中にありこの事実を裏付けている。この高ー〇〇石は、その後天明三年(一七八三)に「諸夫二重に成り失墜多く惣百姓難義に付……」という理由で、願いにより下石戸下村からの完全な分離が許可され(岡野正家ニー)、以後は、年貢諸役等は下石戸下村を通さずに直接納入することになったのである。なお、本宿村三上筑前守知行所が高ー五八・四六八石(表2参照)となっているが、これは高五八・四六八石の誤りと思われる。

表20 江戸期以降の市町村分合表

さて、明治二十二年(ー八八九)四月一日、市制町村制施行時の旧石戸村は、江戸時代においては旗本牧野讃岐守(まきのさぬきのかみ)の領地であったが、牧野讃岐守康成は家康譜代の臣で、石戸城を中心に鴻巣市から上尾市に至る石戸ニーか村(前掲)五〇〇〇石余を知行していた。その子信成は父の跡をついで、寛永三年(一六二六)御留守居となり加増二〇〇〇石、同十年(一六三三)さらに加増四〇〇〇石を得てー万一〇〇〇石となり、石戸藩主となっている。しかし、正保元年(一六四四)下総(しもうさ)(千葉県)関宿(せきやど)に移封(いほう)となり石戸藩は廃されたが、その後も一族による支配が続いた。
一方、旧中丸村は当初幕府領であったが、正保~元禄ごろ(一六四四~一七〇四)を境に幕府領はわずかとなり、そのほとんどが小禄の旗本領に編成替えになった。以下、『新記』を中心に当時の各村の様子について述べてみたい。ただし、物産については他に適当な資料がないこと、また、年代的に多少のズレはあるものの内容的には大きな達いはないだろうということから、『郡村誌』(明治九年)を引用した。

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