北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

3 市域の開発

草分け
表24・25は東部朝日二丁目の無量寿院と西部高尾の阿観堂について、檀家各家ごとの古い墓石順に配列したものてある。A家の寛永13とあるのは、寛永十三年(一六三六)に物故した者の紀年銘があることを示す。敬神や祖先崇拝の念の強かった当時、しかも一家の初代ともなれば経済的に困窮していない限り墓石は建立されたものと思われる。没年よりおよそ三〇年前を一人前の農民として活動を開始した年齢とふんでこの表をみると、村の開発の大要を把握することができるであろう。
無量寿院についてみると、江戸時代のごく初期に墓石が造立できた裕福な農民は三軒だけであり、草分け的存在として重きをなしたと思われる。寛永期になると三軒ちかくがこれに続き独立自営の農民が次第にふえてくる。十七世紀の半ばごろ慶安・承応期(一六四八~五五)になると一八軒ほど増加し、ほぼ近世村落の大要ができたとみることができる。他方、阿観堂についてみると草分けは二軒で、江戸時代以前の天正・文禄期(一五七二~九六)とおさえることができる。江戸時代の初頭慶長・元和期(一五九六~二四)には四軒が加わり、準草分けとして村の中で草分けの二軒とともに重きをなしたと思われる。続く寛永期(一六二四~四四)に七~八軒が家をおこすが、その後も開発は間断なく続き、十七世紀末に近世村落として成立したとみることができる。(第一章四節三の「慶長・寛永期の検地」参照)。

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