北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

2 宿駅と助郷の紛争

天保二年の争論と議定
この争論は天保元年ーー月頃に、鴻巣宿助郷下谷村外四か村(宮内・高尾・荒井・原馬室)が正人馬勤めをやめて雇替えで勤めたいと申し出、これについて残りの助郷六〇か村が反対したことにより起ったと推定される。助郷六〇カ村側の主張は次のごとくである(鴻巣市 常見桂一家文書)。
当時の農村は人口が減少して荒地が増加するなど荒廃しており、助郷役の負担も過重になっていた。それらの解決のために種々努力し、宿駅と助郷では雇替えなどをして勤めを維持してきた。雇替えによる人馬勤めは四〇年以前より実施しているが、これまでに特に問題になることはなかった。相手助郷五か村が正人馬勤めから雇替え勤めにしたいとして触元帳の作成を願い出、鴻巣宿問屋周次もこれに同意して、現在の人馬勤めに問題があると偽りを述べている。四年前の文政ーー年(一八ーー)にも五か村は雇替え勤めに支障があるとして出入りに及んだが異常なく内済になり、五か村役人は咎や過料となった。それ以来遺恨を持って度々難題を申し立てているが、助郷六〇か村は我慢してきた。然るに五か村は文政ーー年に正人馬勤めを願っていながら、昨年一二月には雇替えにしたいと申し出るなど勝手であり、その上に触元帳を作りたいと主張したのは、折返し勤めができないように企むもので、そうなればこれまでの苦労が無駄となり買上げ人馬がさらに増大する。また、昨年秋に問屋周次は助郷へ掛け捨ての無尽を申し入れたが、一昨年もその前の年も無尽をしたのでその余裕がなく、断ったのを恨みに思い五か村と結託している。
さらに五か村は去年まで馬三〇〇疋余も滞っているため、度々申し入れをしても埒があかず、その分を負担してもらいたい、として五か村を訴えている。
こうして双方が主張をしている間、同年一二月、次の八力条の内済が成立して双方訴状の取り下げを願った(鴻巣市 野崎武士家文書)。

① 正人馬及び雇替えの人馬触れは、宿役人と助郷惣代とが相談して人馬数を見積り、日々触元帳を作成して問
屋・年寄が割り印した上で、正人馬勤めの村は名主へ、雇替えの場合は世話人に触れるので遅滞なく勤めること
② 平日の触れや助郷惣触れとも、急の通行があって触れが間に合わない時は、上り・下りとも人馬を買上げて
勤め、うち四疋までは継札(札を渡して後に駄賃銭を支払う)を使用していたが、助郷から疑われるので中止し、
以後は宿助郷が相談の上で全て買上げ人馬として助郷惣代が駄賃銭を立替え、後日助郷から高割にして徴収する
③ 継札の使用は、全ての人馬を使い切った時か、刻限切れになって人馬がない時にのみ使用すること。買上げ
人馬は前条に従うこと
④ 宮内村外四カ村も年によって雇替えをするが、他村同様にすること
⑤ 助郷人馬の使用帳は毎年作成し、三月晦日までに道中奉行所へ提出すること。去る、文政十一年の議定の通
り助郷惣代の他は問屋場へ立ち入らないこと
⑥ 助郷惣代は定助郷の内から一年交代で相応の者を選び、なるべく宿駅近隣の者にすること
⑦ 正人馬及び請負の場合も刻限迄に宿へ到着すること
⑧ 助郷惣代三人のうち一人は夜も宿へ勤めること

これらを取極め、去る文政十一年より日メ帳を見届けたところ、人馬の使用も不正がなく訴訟側も納得したし、今後はいつでも日/帳を見せることになったので、訴状も取り下げるということであった。
この争論は、助郷役の負担を正人馬から雇替えに変更しようとする助郷五か村と、従来通りを望む六〇か村の助郷とで起ったが、そこに問屋が加わって争論をより複雑にしている。五か村で勤めるべき馬役三〇〇疋分が滞っていると訴えているように、この期の助郷役が過重であるところに争論の根源があり、一時的に議定など成立しても問題は解決されず、再び訴訟になるのである。

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