北本市史 通史編 近世
第4章 幕末の社会
第2節 幕末の世相
2 武州一揆
藤井真家(鴻巣市)の慶応二年(一八六六)七月の御用留に(高尾村や荒井村にも同文書が回覧される仕組みになっていた)「打ち壊し徒党の者どもの諸入用出金につき相談したいので問屋場まで集合のこと」という鴻巣宿の問屋から各村名主にお触れが出された。これは見出し記載なので内容を詳しく知り得ないが、おそらく武州一揆にかかわるお触れであろう。この触れのひと月前、六月十三日から十九日にかけて、武蔵一五郡、上野二郡にわたり高利貸・横浜売生糸稼・豪農・豪商・村役人・役所など家数約三〇〇軒が打ちこわされ、県域の百姓一揆中の最大激化闘争になった。
これには種々の原因が関係し重なり合っていたが、安政の開国が諸般におよぼした直接間接の結果や影響が主因となっている。開国により日本経済は破綻しはじめ、国内必需品の国外流出や諸物価の急激な高騰が起った。幕府は連年物価引下げ令を出して取締まるとともに、万延元年(一八六〇)には五品(雑穀、生糸、呉服、水油、鑞)江戸廻し令を公布して貿易制限を通じて物価騰貴を押えようとしたが、その効果は少なかった。またこのころ幕府は第二次長征中で御用金の賦課や村入用の増加を強いた。長征のための兵糧米の確保を理由にした米の買い占めや売り惜しみに伴なっても米価は高騰した。さらには慶応元年の蚕種紙の輸出自由化がもたらした蚕種・繭価格の高騰、これを鎮静化するために幕府は生糸蚕改印令を出し、地方の有力商人を生糸肝煎(きもいり)役に任じたが、これがかえって激しい反対運動を誘発して。加えてこの年は天候不順で、諸作物や養蚕は多大な被害を被った年でもあった。万人が等しい窮状下にいるならば、万人は等しく耐えて騒動は起こらないのであろうが利害が相反し敵対する。米の買い占め売り惜しみで不当利益の追求に走る商人、輸出自由化に便乗して蚕種・生糸、製茶等で巨利をえる商人や豪農等に対して、物価騰貴で苦しむ多数の貧農の不満が爆発した。六月十三日入間郡名栗村から起こった一揆はたちまち燎原(りょうげん)の火のように各地に伝播し、約一週間にわたり全県下に展開した。打ち壊わしにあった家数は前述したように約三〇〇軒におよんだ。しかし、打ち壊わしの一揆勢は代官江川太郎左衛門が村々の豪農を主体に組織していた農兵、幕府陸軍や諸藩の兵士などによる警備態勢が整うにつれて徹底的な武力弾圧により鎮圧された。
図24 武州世直し一揆展開図
(『県史通史編4』P826より引用)