北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

1 府藩県治下の北本

赤報隊と冶安維持
相楽総三は、下総国相馬郡椚木(くにぎ)新田(茨城県北相馬郡藤代町)の郷士、小島兵馬の四男として、江戸に生まれた。旗本金融で蓄財をなした父のもと、文武両道に秀で、国学と兵学を講じる塾を開いた。文久元年(一八六一)、二三歳のとき、草莽(そうもう)の志士として尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に身を投じ、やがて薩摩藩士とともに江戸・関東攪乱(かくらん)工作に従事することになる。彼らと東征軍の先鋒隊の一つである赤報隊とが関わるのは、西郷の要請による。赤報隊とは赤心報国の略称で、東征総督軍麾下(きか)の先鋒隊の一つで、正式には「嚮導隊(きょうどうたい)」と呼ばれていた。
相楽は一月十二日、民心を引きつけるために年貢半減の建白(けんぱく)を行い、許可を得て、村々に「年貢半減令」を宣布した討慕の檄文を送り、東山道を東へ進み、二月六日には信州下諏訪に達する。中山道筋の北本市域にも二月十三日までにはこの檄文が到達していたと推定される(『戸田市史資料編五』№一)。ところが、二月十日には信州諸藩に対して、赤報隊を偽官軍とする「回章」が出された。相楽ら幹部八名は総督府の統制をはなれ、米穀・軍資金を強奪し、武器を貯えたという罪状によって逮捕され、弁明も許されず三月三日斬首(ざんしゅ)された。真相はつまびらかでないが、赤報隊が出した年貢半減令を新政府が取り消すために行ったとされる。成立したばかりの新政府は、一月二十三日に、越前藩士由利公正(ゆりきみまさ)の建議で、三都商人(京都・大坂・江戸)から会計基立金(もとだてきん)三〇〇万両の募債(ぼさい)を決定するが、募債が借金である以上、これら特権商人たちに、返済のめどがあることを示す必要があったためとされる。農民の待望したであろう年貢半減令は、こうして幻のごとく消えたのである。
この間の埼玉県東部の御道筋では、軍兵の移動を背景として、打ちこわしや百姓一揆(ひゃくしょういっき)が起こり騒然としていた(表1参照『県史通史編五』P二四)。これらは忍藩と東山道総督軍の大監北島秀朝らによって鎮圧された。二月末から、鴻巣、桶川周辺の村では、およそ一七〇か所で放火、打ちこわしがみられた(『県史通史編五』P二四)。
表1 戊辰期(ぼしんき)の主要騒動
地 域発生時内 容
児玉・那珂(なか)郡43村2月15日銃隊取立反対騒動
寄居村組合(榛沢・男衾・比企37村)2月22日出流山一件不正、銃隊取立反対
秩父郡下吉田組合2月28日出流山一件不正糾弾
埼玉郡羽生領・騎西領3月10日大小惣代打ちこわし、放火
男衾郡(おぶすまぐん)木部・西ノ入村周辺3月15日名主・割元役不正追求、質地返還
男衾郡勝呂村3月19日張札・質地返還・施金施米
深谷宿組合(榛沢・幡羅72 村)3月?日出流山入用不正糾弾
比企郡腰越・靑山村3月?日質騒動
菖飾(かつしか)郡幸手宿周辺4月15日困民徒党
埼玉郡下新井村4月17日徒党、富家押入り
足立郡桶川在4月17日徒党、富家押入り
入間郡勝楽寺村4月?日貧民徒党、打ちこわし
秋父郡中津川村?名主不正、借金肩代り、賦役庚止
秩父郡小鹿野町周辺?張札、施金要求

(『県史通史編5』P24より引用)


市域でも、打ちこわしや強盗に備えて、治安維持につとめるよう村役人に宛てた廻状が鴻巣宿の問屋から届いている(近代№二)。これらの一揆、打ちこわしは、官軍の軍事行動による交通・金融の途絶(とぜつ)、人心不安・物価高騰(こうとう)、助郷(すけごう)役の増大、年貢米納入の復古、臨時村費の増加などに対する不満が原因となって起こったものである。
事実、東海道軍、東山道軍の通過した三月から四月にかけては、農民の負担も少なくなかった。兵食の賄料(まかないりょう)から助郷(すけごう)人足の差し出しの他、慶応四年(一八六八)四月には、官軍御用金として、高一〇〇石に付き金三両と白米三俵を各村々に割り当てる達(たっし)が発せられている(近代№四)。新政府の東征は、このように農民たちに負担を強いながら実施されていったのである。

<< 前のページに戻る