北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

元亀三年(一五七二)五月七日
北条家は、足立又三郎他四人に対し北条家忍者の風間の六か村滞在と非法なきことを命ずる。
また、翌四年十二月十日、北条家は、石原康保に命じ、風間の砂原村在宿を停止させる。

208 北条家印判状写 〔新編武蔵風土記稿〕
風間来七月迄、六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼藉致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件

  壬申
    五月七日      笠原藤左衛門尉奉

    岩井弥右衛門尉殿奉
    中村宮内丞殿
    足立又三郎殿
    浜野将監殿
    立川藤左衛門尉殿

209 北条家裁許印判状写 〔武州文書〕
風間在所被仰付間、すな原ニ者、有之間敷被思召処、于今致在宿候哉、百姓迷惑之段、申処無余儀候間、向後風間置事、無用候旨、被仰出者也、仍如件
          
               評定衆
元亀四年 癸酉 十二月十日   勘解(石巻)由左衛門尉
                     康保(花押)
           すな原百姓中
〔読み下し〕
208 風間(ふうま)来る七月まで、六か村へ置かせられ候間、宿以下の事、相違なく申し付くべく候、万一知行分に対し、聊(いささか)も狼藉(ろうぜき)致すに付いては、風間に一端相断り、承引致さずば、則(すなは)ち書付けは、小田原へ捧ぐべく候、明鏡に仰せ付けらるべく候、馬の草・薪(たきぎ)取りの儀をば、相違なくこれを致させべきものなり、仍って件の如し
209 風間在所仰せ付けらる間、すな原には、これあるまじく思し召さるる処、今に在宿致し侯や、百姓迷惑の段申す処余儀なく候間、向後、風間を置く事、無用候旨、仰せ出ださるものなり、仍って件の如し
〔解 説〕
史料208は、北条氏政が、配下の風間忍者を六か村へ滞在させるよう、足立又三郎ほか四人の代官に申しつけたものである。
忍者は戦国大名が野武士・野盗などの中から召し出して、敵状偵察(ていさつ)や戦場で部隊の先導等をさせたが、風間は後北条氏抱えの忍者であった。五月から七月まで、何故にこの六か村に滞在させたかは不明である。忍者はラッパ・スッパ・忍びの者等種々に呼ぱれたが、乱暴狼藉を懸念(けねん)して万一非法を行う場合は一度は風間に話をし、もし聞き入れない時は文書に認めて小田原へ差し出せと命じたものである。但し、飼養していた馬のかいばや、燃料の薪木については採取を許すとしてる。足立又三郎は足立氏の後裔か。
史料209は、風間の在所を命じた中に、砂原が入っていないのに在宿し、百姓等が迷惑したため、北条家は評定衆石巻勘解由左衛門尉康保に命じて、風間の砂原村在宿を停止させたものである。
「すな原」については、大利根町、越谷市に地名が見られ、いずれも河川沖積地に位置する。本史料は鴻巣郷に居住していた小池長門守家に伝えられた文書であるので、郷内の河川近傍の砂地原の地名かと思われるため、本書に収裁した。

<< 前のページに戻る