北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

元亀三年(一五七二)六月晦日
岩付城主北条氏繁は、大行院に上足立三十三郷の伊勢熊野への先達職衆分の檀那職を安堵する。

210 北条氏繁書状写(折紙) 〔武州文書〕
上足立三十三郷(1)之伊勢熊野へ之先達(2)職衆分檀那等之儀、被相任由、聖護院(3)御門跡御奉書幷両奉行衆証文依明白、太田源五郎(4)方証文被進置候哉、於拙夫も得其意候、猶屋形(5)へ可及御取成候、恐々謹言
   元亀三年(壬申)
    六月晦日    氏繁(6)(花押)
    大行院(7)
〔読み下し〕
210 上足立三十三郷の伊勢熊野への先逹職衆分檀那等の儀、相任さるるの由、聖護院御門跡御奉書并びに両奉行衆の証文明白に依り、太田源五郎方証文進め置かれ候や、拙夫に於(おい)ても其の意を得候、なお、屋形へ御取成しに及ぶべく候、恐々謹言
〔注〕
(1)足立郡を大宮付近で二分し、北を上足立、南を下足立と称した。
(2)一定の信者(檀那)を修行に道案内し、祈禱・行事などを指導する山伏
(3)修験道本山派の本拠の園城寺の経営管理に年番で当った門跡寺院の一つ
(4)太田氏資
(5)北条氏政
(6)北条家の重臣北条(福島)綱成の子、相模玉縄城主 永禄十三年〜元亀四年の間、岩付城主となる。
(7)足立郡南古谷(鴻巣市)の修験寺
〔解 説〕
史料は上足立三十三郷の大先逹である大行院に対して、聖護院門跡奉書、同奉行衆の証文により、先年岩付城主太田氏資が証文を出したので、氏繁もこれらを認め、その旨を小田原の北条氏政に取りなすことを報じた書状である。「源五郎方証文」とは永禄八年(一五六五)二月二十日付太田氏資書状写(史料196)であることがわかる。
北条氏繁は岩付城主(城代)として領国内の修験者に支配権を行使しており、これにより足立郡内の修験者の支配が、前城主太田氏の時と同様に、岩付城主の権限に属していたことが知られる。

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