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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

5 カゴヤ(籠屋)

合成樹脂で作られた製品が出まわるようになって、そのあおりで急速にその需要の衰えたものが竹製のザルやカゴである。最近、その良さが再び見直され、飾り物に用いられるなど再認識されてきつつあるが、昔日の面影はなく、ほとんど職人さえみることができなくなりつつある。
深井の須永重太郎さん(明治三十四年生)は昭和四十年までカゴヤをしていた。須永家は初代亀吉さんが吉見町でカゴヤを始め、二代目仙松さんは川越でカゴ作りをした。三代目にあたる重太郎さんは川越で一三歳まで育ち、その後、鴻巣の山王町に住み、昭和四年に現在地にやって来た。一六歳の時に父の手伝いをしながらカゴ作りを習い、二〇歳の時日本ピストンに修理工として徴用された。戦後はすぐにカゴヤをはじめたのでうまくいき、農家などは米を持ってきたので、食べ物に苦労することはなかった。これまで作ったものは主に農家の種々のカゴ、米ザル、養蚕カゴなどで、竹の涼み台は、近在のものをほとんど手がけていた。涼み台の最盛期は、毎月二回ほど、二トン車が来て積んでいったほどの注文があった(昭和二十五〜三十年ころ)。材料の竹は安中のものがよく、群馬の竹問屋を通して仕入れた。盛んな時は一年にトラック三台分(一台に一二〇本)もの竹を使った。
冬場には農家のカゴ、米ザル、養蚕カゴを作り、夏場には竹の涼み台作りをした。現在(昭和五十九年)埼玉で涼み台を作れる職人は四、五人しかいないという。重太郎さんはこれまで、鴻巣地区(桶川・北本・鴻巣)竹細工組合(二六軒加入)の組合長を一八年間やってきた。
今年(昭和五十九年)で、仕事をやめてから二〇年になる。それまで弟子を三人ほど育てたが、その若者たちも七〇歳をすぎている。カゴヤの修業は三年で、一年目は見習い、二年目から仕事を仕込まれる。月々の手当は小遣い程度しかもらえなかったという。
<製品の種類と作り方>

図5 米ザル

〇米ザル
  種類      骨    直径
 一斗五升ザル 三六本  三尺六寸
 五升ザル   三六本  二尺五寸
 三升ザル   三六本  二尺二寸
フチダケは五分の身ダケを使い、フチマキはその上に左まきにして四枚ぐらい巻き、二~三枚を下まきとして右まきにする。底は幅二寸(六センチ)ぐらいの皮と身をまぜて編む。目の荒いのがカゴでつまっているのがザルである。


図6 養蚕カゴ

〇養蚕カゴ
 養蚕カゴには次の三つのカゴがある。
 養蚕カゴ 平たい角型 五枚組
 小ザル  マユを入れて運ぶザル
 小カゴ  桑の葉を摘んで入れるカゴ


写真7 籠屋の道具

〇その他のカゴ
 大カゴ   木の葉を集めて運ぶカゴ
 背負いカゴ いろいろな物を運ぶカゴ
 フリカゴ  ウドンを温める時に使うカゴ


図7 涼み台

〇涼み台
涼み台は職人の間では夏物といった。並みの職人で一日に二台を作るのが平均的労働量であったが、重太郎さんは五台作ったので、夏物四カ月の仕事で一年の生活費ができた。涼み台作りは三年休むと勘が狂う。また、この仕事は一四、五年続けていないと一人前の仕事はできないという。涼み台一台は昭和三十年ころで三五〇円。現在(昭和五十九年)は一万五〇〇〇円である。竹はその当時、三五、六円であったが、現在は四八〇〇円もする。その当時は二トン車一台に八〇台積んだが、月に一六〇も作ったので、一(ひと)月に二トン車が二台も荷を積みにきたものであった。当時、涼み台は東京から直接注文とりにきた。そのあとは電話で取り引きするようになった。

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