実録まちづくりにかける集団

北本この人 >> 実録まちづくりにかける集団

第2編 「わぁ、つくしんぼみたい、わたしのおうち」
   あそびの学校が歩んだ十三年

一 私のことと私のまち北本市

私、平田正昭が、埼玉県北本市に住むようになったのは、昭和四十九年五月、長男大智が生れて半年後だった。それまで住んでいたマッチ箱より小さな家から、部屋数が七つもある御殿――実はある建設会社の寮として使われていた廃屋に近い住宅――へ引っ越したことがきっかけだった。五月の連休を利用して、夫婦二人で壁を塗替え、畳替えをして、窓を修繕し風呂場を直して、どうにか人の住める場所を確保した。それでも、私たち夫婦にとっての立派なお城である。
当時二〇代後半の私は、大工仕事や左官の真似事など、たいていのことは器用にこなしていた。妻幸枝も、こうしたことが楽しかったらしく、一緒になってよく頑張ったものだ。あれから三〇年近くが過ぎ、長男は独立して会社づとめ。その後生れた次男晶路は、私と同じ資格を取得して、同じ仕事場にいる。妻は、経理の仕事と家事一切、それに少々の庭いじりをしている。
北本市は首都四十五キロ圏内に位置し、高崎線沿線という立地条件によって、昭和三〇年代以後急激な人口増加で、村から町そして市へと、駆け足で成長したところである。全国四十七都道府県の出身者が、全部そろうという、珍しいまちでもある。したがって、五〇年以上この地に住み続いている人たちは、わずか二割弱でしかないという。
北本市の歴史は、旧石器時代までさかのぼることができる。市内各地に遺跡が発見され、太古のむかしから、人が生活していたことを伝えている。しかし、大半が流入市民で構成している現在の北本市では、ほとんど「ふるさと意識」は根付いていない。
縁あってここに住みつくことになった私にとって、いや、子供たちにとっては、大事なふるさとであり、生れ故郷なのに、親がこのまちのことを知らないでは申し訳ない。こうして、私自身の土着化運動が始まったのである。
たまたま、地元北本市の社会教育にも関わることとなり、このことをきっかけとして仲間も増えた。またいろいろな形での「我が師」との出会いがあり、まちづくりにも関わることになった。まち中を歩き回り、史跡・遺跡を尋ね、さくらが多いことも学んだ。
子供の成長に合わせ、市内のボーイスカウト団の一員にもなった。現在の私のあそび仲間の基本は、このボーイスカウト時代にできあがったものだが、仲間が集まって、気楽な飲み会を開いたり小旅行をしたり、子供をダシにした、ていの良い親父の会でもあった。その後青少年を中心とした、いろいろな活動を展開する中で、同じ思いを持つ多くの人たちとの交流が始まった。

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