北本の神社

社会3 >> 北本の神社

本文

Ⅰ 旧中丸地区神社

【浅間神社 旧村社

1.所 在 地
北本市東間1丁目6番地

2.祭 神
本花開耶姫命

3.沿革
もとは、代々宮内村の名主をつとめた大島彦兵衛家(当主穎太郎氏の4代前)の氏神だったという。
彦兵衛家は北条氏の家臣の家柄であったが、月ヽ田原落城の際、落ちのびて岩槻から宮内村にきて定住したと伝え、当社も最初は宮内の大島家地所内に祭られていたという。
彦兵衛は鴻巣の勝願寺の和尚と懇意であったが、その僧の言に「宮内では、お詣りする人も少ないじゃないか。東間は通りっぱたで人通りも多い、東間には鎮守様がないから持って行ったらどうだ」ということで、東間の勝林寺の近くに祭りなおしたものという。ちなみに勝林寺は勝願寺の隠居寺(末寺)だといい、勝林寺地所七反弔ももとは大島家の地所だったという。また、かっては大島家から行かなければ、浅間様の鍵は開かなかったといわれ、招待されて行ったという。
『新編武蔵風土記稿』の東間の条に「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」との記載がみえる。また、大島家で所蔵する明治期の浅間神社境内地をめぐる訴訟時の記録からみても、これらの伝承には信憑性が認められる。
また、浅間神社の別当寺であった宝光寺は、明治39年の勅命に基づき、明治42年9月8日に合祀され、宝光寺持1町4反6畝の宮林は、浅間社に払い下げられた。
なお、当社の書類等は、先代の宮司千葉松彦氏が戦後川越の喜多院に預けてそのままになっていると伝える。

4.祭事
大祭 7月1日
冬至祭 12月22日

5.景観・配置
拝殿 入母屋造 瓦葺
本 殿 流造 瓦葺
鳥 居 神明型 花同岩製
手水石 銘「奉納 明和二壬辰天(1832)六月朔日 東間村 氏子中J
記念碑1 表銘「鳥居奉納 官幣大社氷川神社宮司従五位勲六等額須大直書」
     裏銘「寄附者連名 大正八年二月吉日建之石工師鴻巣町伊藤群鴻」
記念碑2 表銘「明治四十年七月 正三位勲一等伯爵大隈重信題字 衆議院議員加藤政之助撲文丼書 石工師鴻巣町伊藤群鴻」
     裏銘「従軍者氏名 明治四十年七月十一日建設」
記念碑3 表銘「奉献 玉垣 階段柵 皇大神宮参拝記念 氷川神社宮司有賀忠義敬書」
     裏銘「昭和式年式月拾四日 太々御神楽奉奏 昭和拾年五月建設鴻巣町石工柿沼群保」

6.神木・神蹟類
 

7.摂 末 社
天神社 祭神 菅原道真公 由緒不詳
八幡社 祭神 誉田別命 由緒不詳
弁天社 祭神 弁財天 由緒不詳
庚申塔 銘「安政二巳夘八月吉日 世人飯野長蔵」

8.組織・運営
宮司は吉田浪次氏であるが、かつては馬室村小松原(鴻巣市)在住の先達、千葉松彦氏が勤めていた。氏子は、東間1丁目~8丁目の全戸1200戸であるが、中心になるのは戦前から在住する農家65戸である。

9.奉 納 物
奉納額 銘「奉納 御嶽山本御神楽 明治二十七年四月二十日」
のぼり 銘「奉納御宝前 大正九庚申年七月吉日 営所 氏子中」

10.信仰・習俗・その他
7月1日の大祭は、この地方の夏祭りのはしりであり、出世初山のお宮として賑わう。昨年の大祭以降この1年間に誕生した子ども(男女児とも)をつれて初山登拝し、額に参拝記念の印を受け、お札と初山のウチワをいただいて帰るならわしである。誕生祝等を貰った親戚などにもウチワを配る。
冬至祭は、もとは全戸から出て庭に火を焚き荒行を行っていたが、現在は総代10数人だけ参加し、火鉢の中でしるしばかりの火を焚く。
昭和52年社務所改築、現在(昭和53年)本殿の改築の話しが進行中である。

<< 前のページに戻る