北本の守り札 守札の概要と分類

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第1章 守札の概要と分類

第2節 石戸鈴木家の概要

鈴木家がいつごろから市内石戸宿に居を構えたのかははっきりしない墓石や過去帳からうかがえるところを整理すると次のとおりである。
五郎右衛門 天明六年 (一七八六)─慶応四年 (一八六八)八二歳没
藤右衛門  享和三年 (一八〇三)─明治八年 (一八七五)七二歳没
鈴木源次郎 天保三年 (一八三二)─明治三一年(一八九八)六六歳没
鈴木多嘉蔵 安政五年 (一八五八)─大正八年 (一九一九)六一歳没
鈴木松治  明治一七年(一八八四)─昭和一五年(一九四〇)五六歳没
鈴木芳雄  明治三八年(一九〇五)─昭和五九年(一九八四)七九歳没

通常、守札に記名はされないが、護摩札の場合は氏名を書いて息災・増益・降伏・敬愛などを社寺に祈願することから氏名が残っている。これによると、年代の古い順に源次郎が八点、多嘉蔵が一九点、松治が八点となっており、芳雄の代以降は皆無である。源次郎の代になって初めて守札を求めるようになったと考えるのは不自然なため、それ以前の守札は何らかの機会に整理されたものと考えられる。いずれにしても、鈴木家で発見された守札が累積されたのは明治・大正の全期間と昭和の一〇年代までであったと想定される。
なお、調査当時の当主の奥様によれば、当家に嫁いできたころのお札は累積されることなく、毎年社寺に返納しており、この習慣が今日まで続いているとのことであつた。
一方、関根家は鴻巣宿と桶川宿の間宿であった本宿の南端に位置する。 屋号は「タテバンチ」であり、江戸期には本宿の立場であった旧家である。また、新井家は荒井の旧家である。

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