北本の守り札 守札の概要と分類

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第1章 守札の概要と分類

第4節 守札の入手と祀り方

図7 榛名の旅館から講元に届いた葉書

守札は本来、本人または家族が求めるもので、たとえば護摩札や祓札の多くはこの類である。
社寺が遠方の場合には、代理人に依頼したものが多く、その一例が代参講であった。代参講とは近県の特定の社寺に信者が有志で、あるいは集落単位で講を組織し、毎年一回、代表者を送って参拝を続けるものであった。この参拝の折には守札をまとめて求め、帰宅後に講員に配布した。
なお天保四年(一八三三)、下石戸上村の「巳盆前 冥加金・役銭・伝馬割合帳」(吉田眞士家文書No.二八五)の中に「壱貫文弐厘榛名代参」の文言がある。この史料によれば、江戸期の下石戸上村では、榛名神社への代参費用を村がかりで負担していたことがわかる。まさに村民全てが信者であった。

市域から代参する社寺は、県内では三峯神社、群馬県では榛名神社、東京都では御嶽神社、神奈川県では阿夫利神社、千葉県では成田山新勝寺、茨城県では笠間稲荷神社、長野県では戸隠神社などがあった(『北本市史」第六巻民俗編一九八九)。ただし、鈴木家には戸隠神社・笠間稲荷神社の守札は含まれていない。同家周辺の鎮守である天神社、菩提寺の放光寺の守札は直接授かるか、隣組を通じて届けられる場合が多かったであろう。これらの他には、親族や友人が社寺参りの折に求めてきたものや、依頼したものも含まれ、著名な観光地に所在する社寺の守札は、土産として入手したものが多かったと想定される。
参考までに、榛名講の代参者が宿泊した旅館から、講元へ宛てた明治三四年(一九〇一)の葉書を紹介しておく (図7)。
宛名は「北元宿 岡野榛名山太々講元外御一同」で、差出人は「群馬県群馬郡室田村下室田 角屋宮崎與五郎」である。書面は「拝啓 秋気相加り候処御講中皆々様如何御起居被成候哉必定御健勝ニ候事と奉賀候。先般御登山之際ハ種々御曳立ニ預り難有存(知)候。疾々御禮可申上筈之処取込事ニ紛れ御無沙汰奉謝候。猶不相変御愛顧之程希上候。先ハ右御禮方御伺まで。書外他日ニ申残し候。敬具 明治三十四年十月廿七日午後」というものである。
代参以外の場合としては、御師あるいは先達によって配布されるものであった。御師とは社寺などに属し、神官や修験者などの身分を有しており、彼らは地方に檀那をもち、所属する社寺の守札を直接手渡していた。図8(44—3)はその一例で、これをみると、御嶽神社の小桜坊の御師が介在したことがわかる。また、平素の御師は檀那に代わって社寺に祈祷を込め、檀那に守札などを配り、その対価を得ていた。鈴木家の守札のうち、どの守札が御師によって配布されたものかは判然としないが、相当数が含まれていると想定される。山形県の羽黒山、愛知県の日本総社、三重県の伊勢神宮などの守札の多くは御師によって配布されたものであろう。図9(44—5)には「御師 高名監物」の名前がみえる。御師は地方組織をもち、地域の年番に当たっているものから個々の檀那に守札を配布していった。

図8 (44-3)

図9 (44-5)

鈴木家の守札中に確認できる神主、御師など宗教者名の表記がある守札は次のとおりである。
善明      市内上中丸の行者で、どこの寺社に所属していたかは不明である(8—1)
近藤宗全    修験、醒醐山三宝寺門跡(21-1)
澤潟大夫    内宮荒木田神主(72—5)
岩田宮内    高山御師(41—1)
岡部口太夫   大山御師(47—19)
藤原孝改    江戸総鎮守白山御社御祈願所神主(43—1)
三日市大夫次郎 伊勢御師(72—3)
堀田右馬大夫  日本総社(70—1)
粟野口神主   従五位下壱岐守朝臣(63—6)
添藤福太夫   (108—1)
田中土佐守   (109—1)
高名監物    武州御嶽山御師(44—5)
伊藤福太夫   (96—1)
以上、一三人を数えるが、詳細は不明である。

図10 中丸の神棚(加藤家)

なお図10は市内中丸の加藤家の神棚である。ここには伊勢皇大神宮、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、秩父市の岩根神社などの守札が祀られており、鈴木家もほぼ同様の祀り方をしていたであろう。
市域ではこのほか、お勝手にエビス様、竈にコウジン様、台所の下の大黒柱のそばにタワラ神、屋外の井戸にはイド神、便所にはセッチン神、屋敷の一角には氏神を祀るのが一般的であった。

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