雑木林のあるまち 道
1.(伝)鎌倉街道
石戸宿には、かつて宿並36軒(けん)と呼ばれた表通りの家があり、それぞれ屋号で呼ばれていた。宿の中央を走る道路には真ん中に雨水の排水溝(はいすいこう)が設けられるなど、たいへん特色のあるものであった。むかしは、この二すじの道はきちんと使いわけられており、東側の道がふだんの通行に使用され、西側の道は葬式(そうしき)の時にしか使用されなかったという。そのわけは、当地がかっての石戸城の城下にあたるので、城主の通る道を特別扱(あつか)いしたためだという。
「石戸の蒲(かば)ザクラ」で有名な石戸宿の東光寺の近くは、古くからあった館跡として知られている。地名の「堀ノ内」も館であったことに由来している。平安時代の終わりころから南北朝時代の初めころまで使われていたといわれる館である。中心に方形の郭(くるわ)を置き、二重の堀がとり巻く隅丸(すみまる)三角形の縄張(なわば)りが想定されている。
石戸城は、室町時代中期の築造で西側に荒川を望み、北東方を谷津(やつ)に囲まれた自然の要害地に、岩付城(岩槻(いわつき))と松山城(吉見)との連絡の支城として築かれた。城郭(じょうかく)の形態は、縦長の台形に近く、中央部には東西に走る堀跡(ほりあと)が認められる。
高尾の氷川神社から南へ進むと万人講中(まんにんこうちゅう)のお地蔵様が立っている。泥(どろ)の団子をあげ願をかけると不思議なことに「いぼ」がとれたという。願いがかなったら米の団子をあげるといわれている。
本郭方向を望む 石戸宿 (平成元年)
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「石戸の蒲(かば)ザクラ」で有名な石戸宿の東光寺の近くは、古くからあった館跡として知られている。地名の「堀ノ内」も館であったことに由来している。平安時代の終わりころから南北朝時代の初めころまで使われていたといわれる館である。中心に方形の郭(くるわ)を置き、二重の堀がとり巻く隅丸(すみまる)三角形の縄張(なわば)りが想定されている。
堀之内館跡(航空写真)石戸宿 (昭和22年)
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曲り家 石戸宿 (平成3年)
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本郭付近に残る古道 石戸宿 (平成元年)
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石戸城跡(航空写真)石戸宿 (昭和22年)
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古地図 石戸宿 (元禄10年)
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北向き地蔵付近 荒井 (平成元10年)
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北向き地蔵 高尾 (平成3年)
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