北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

北条氏綱の武蔵進出と石戸城

写真46 北条氏綱画像 神奈川県箱根町早雲寺蔵

(埼玉県立博物館提供)

北条早雲は、永正(えいしょう)十五年(一五一八)に引退し子息の氏綱が家督を継いだ。氏綱はその直後の同年十月八日より虎印判状(とらいんばんじょう)(上部に虎の像を刻した北条家の家印を押した文書で、領国統治の最高の権威とされた)による支配を開始し、検地を実施する等、領国統治の整備を進めると同時に、本拠を小田原城に移し本格的に関東進出を進めることになる。


写真47 北条氏綱制札 神奈川県関山登勢子家蔵

(埼玉県県史編さん室提供)

氏綱は、大永(だいえい)四年(一五二四)一月十三日に江戸城の太田資高(すけたか)(太田道灌の孫、江戸太田氏当主)の内通を得て同城を攻略、扇谷上杉朝興を河越城に敗走させた。この時朝興は、氏綱の攻勢により当初は河越城も維持できず、一時的に「藤田御陣」(大里部寄居町)に避難したという(三戸義宣書状、「上杉家文書」)。
この年の四月十日に、氏綱は相模の当麻(たいま)宿(神奈川県相模原市)に制札を与え、「玉縄・小田原よりいしとともろへわうふくのもの、とらの印判をもたさる者二、てん馬おしたていたすへからす、」と、玉縄((鎌倉市、相模支配のための重要な支城)、小田原より石戸(北本市石戸宿)と毛呂(入間郡毛呂山町)の間を往復する者が虎印判を持たずに、宿内に伝馬役を賦課することを禁止している。そして、もし強要するなら取りおさえて玉縄か小田原へ連行すること、虎印判を持っていても発給後三日を過ぎていれば認めないことをあわせて通告したのである(古代・中世No. 一六七)。氏綱の家臣達が小田原城や玉縄城より当麻宿を通って武蔵の石戸・毛呂の両地へ往来する際に不当な伝馬役賦課を行わないよう規制し、宿住民を保護することを伝えたのである。江戸城占拠後まもなく、氏綱の軍勢が石戸城と毛呂城を攻略したらしいことがわかる。
関東管領山内上杉憲房は、上杉朝興を支援するため、この年十月十日ごろ氏綱方の毛呂城衆が籠る毛呂要害を攻撃している。しかし、氏綱と憲房の間でまもなく和議が成立、氏綱の軍勢は毛呂を退却した(北条氏綱書状、「上杉家文書」)。当麻宿へ制札を出した当時、すでに毛呂は氏綱の支配下にあったのである。しかし、石戸城については、江戸城からかなり離れていることや、後述するように岩付城主太田資頼の重要拠点として維持されていることから、この時点では氏綱の支配下に入っていたとは考えられない。ただし北条氏綱は、石戸城攻略の意図を持ち、進撃を開始していたことは明らかである。
大永四年(一五二四)八月二十六日、氏綱は足立郡三室(みむろ)郷(浦和市)に自軍兵士の乱暴停止(ちょうじ)を保障する制札を与えており、すでに足立郡南部までその勢力が及んでいた(「氷川女体神社文書」)。

写真48 岩付城跡 岩槻市

翌五年二月六日に氏綱は、岩付城下渋江(しぶえ)(岩槻市渋江町)を本貫の地とする領主渋江三郎の内通により同城を攻略して陥落させ、城主太田資頼は石戸城に敗走した。そのため、山内上杉憲寛(憲房の養子、足利高基の子)は、三月ごろ渋江氏と親密な関係にある金田氏の菖浦城を攻略し戦端が開かれている。氏綱は、渋江三郎を岩付城代に配置したが、太田資頼は、享禄(きょうろく)四年(一五三一)九月ごろ岩付城を回復したといわれる。この約六年間、石戸城は太田資頼の本拠であった。太田氏の支配は、確実に市域に及んできたのである。
北条氏綱の江戸城・岩付城攻略は、いずれも現地領主の内通を利用してなされている。後北条氏は、上杉氏の支配に抵抗する配下の有力領主を誘引しながら武蔵支配をおし進めた。

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