北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第1節 地方制度の変遷
3 地方三新法の成立と旧郡・町村の復活
町村会の設立明治九年(一八七六)八月、明治六年に入間県と群馬県が合併して成立していた熊谷県が廃止され、旧来の武蔵国の分が埼玉県に統合されて、現在の埼玉県が成立した。それより先の同八年二月、従来の町村百姓代表制度が廃止され、各区町村に代議人を置く太政官布告が出された。さらに、翌九年十月には各区町村金穀(きんこく)・公借(こうしゃく)・共有物取扱・土木起功(ママ)規則が公布され、町村所有の財産は町村に管理権があるとされ、財産処理は区戸長の独断では行えず住民の六割以上の賛成が必要となった。翌十年五月、県は町村会仮規則を定め、区内の町村が連合して会議組合を設け、組合は四〇〇戸から六〇〇戸を目途とすること、組合内に会場を設け、公選議員によつて議事運営を行うことを決め実施した。この町村会の設置は、いわゆる自由民権運動の高揚の中で、同八年二月、大久保利通が板垣退助・木戸孝允・井上馨・伊藤博文の五者で開いた大阪会議で開設が決まった地方官会議(府知事・県令の会議)によって、同年七月に決められたもので、併せてこの時府県会及び区会を設置することも決められた。
県の町村会仮規則では、町村会は民費、共有財産、災害救恤(きゅうじゅつ)、公立学校、諸会社、市場、道路橋梁(きょうりょう)、殖産、交通、運輸などについて審議することとなっていた。議員は二五戸につき一名、二五戸を増すごとに一名を加え三〇名以内とされ、被選挙権は満二〇歳以上の戸主で、一年以上町村内に居住し全戸数の地価の平均を有する者に限られていたが、選挙権は、地租を若干納めた者、任期は二年とし毎年二月半数を改選すること、議長は議員の選挙によることなどが規定された。また、議決は多数決の原理を採用した。
この町村会の設置にあたって埼玉県では、区会が区長及び町村戸長をもって構成されることになっていたのを、それではそれまで実施されていた区長会議と変わらぬとして、選挙による議員の選出を内務卿に上申し、その許可を得て区会に代えて町村会を設けたという経緯があった。こうした経緯を経て、新たに明治十三年(一八八〇)四月に区町村会法が布告された。主な議決事項は、経費の徴収方法や公共事項であったが、その採否は、府知事や県令・郡戸長・戸長に求めねばならなかった点が、この時代の限界と特徴を示していた。
また、町村内の行政監視は、明治八年より公選された代議人が当たることになっていたが、この町村会が発足(ほっそく)すると、名称を総代人と改称し、その後は新たに選出された町村会議員がこの任を兼ねて当たることになった。
この町村会の設立は、選挙には制限があったが、民選の形態をとり、民意を代表して会議するという代議制を導入したものとして注目すべきものであったといえる。