北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

3 地方三新法の成立と旧郡・町村の復活

村会と村財政
明治十一年のいわゆる三新法の一つ「群区町村編制法」(『県史通史編五』P二九五)によって、市街地は区・農村部は町村の名称で行政区画として復活した。区には官選の区長、町村には民選の区長が置かれ、それぞれ区会・町村会が設けられ、自治体として発足した。しかし、同十七年には再び制度改正が行われ、数町村を単位とする連合戸長役場の設置官選戸長制が実施された。その後、同二十二年四月の市制・町村制施行によって三度の制度改正が行われ、市町村は有力者層を公共団体の執行機関に吸収して明治憲法(大日本帝国憲法)体制の下に地方自治体としての地位を確立した。
また、埼玉県はこの市制・町村制施行に併せて、町村合併の作業を進めたが、二月にほぼこの作業が終わると、次に選挙原薄並びに選挙人名簿作成による町村会議員の選挙の準備にとりかかった。これは、市制・町村制が、地域内居住者を住民と選挙権・被選挙権をもつ公民とに分けたことによる。公民とは、満二五歳以上の一戸を構える男子で、二年以上市・町村内に居住し、地租又は直接国税を二円以上納めた者であった。しかも、町村会では二級選挙が実施され、町村税総額を二等分し、最多納税者の属する群を一級選挙人、それ以下を二級選挙人とし、各選挙人は議員定数の二分のーずつを選挙した。議員は名誉職で任期は六年、三年ごとに半数を改選した。
埼玉県内では、町村制が実施されると明治二十二年(一八八九)四月一日より、各町村とも新体制を発足(ほっそく)させ、四月中には町村会議員が選挙されて町村会が成立した。町村会の定数は人口一五〇〇人未満は八人、五〇〇〇人未満は一二人、一万人未満は一八人と定められており、新たに発足した市域の石戸村と中丸村は、新町村編成区域表(近代№三八)からわかるように、石戸村は人口三八四二人であるので定数一二人、中丸村も人口二八八四人であるので同じく定数一二人の村議会が成立するはずであった。しかし、実際は、石戸村の場合同四十二年七月の石戸村公告式条例設置許可申請(近代№四一)によると議長吉田時三郎以下一一名、中丸村も同じく公告式条例設置許可申請によると議長松村銀蔵以下八人と定数は村の情況によって削減(さくげん)されていた(表14)。残念ながら、発足当初の村会議規則は得られないが、同四十五年二月の中丸村会議規則(近代№四七)が残存しているので、村会の連営の一端を知ることができる。ただし、同四十四年に議員任期は六年から四年に変わり、全員改選と改正されている。先の規則によれば、議題は緊急(きんきゅう)及び簡易(かんい)の議題以外は「読会」を経て会議に付されることになっていた。議決は出席議員の過半数で、無記名投票で決められた。会議録は残すことになっていたが、初期のものはなく、中丸村の議事録は同四十五年以降断片的に存在するが、石戸村の議事録は明治期のものは現存しない。

写真8 中丸村村会議長 松村銀蔵

(松村晴夫家提供)

表14 明治42年の村会議員一覧表
石 戸 村中 丸 村
議長吉田時三郎議長松村銀蔵
議員福田宗八識員矢部亀次郎
鈴木金次郎加藤仙次郎
田島幸之助谷口倉之助
清水巳之助淸水和三郎
深井栄蔵加藤隆次郎
岡村国太郎柳井豊吉
今井吉五郎山本丑太郎
峯尾新作
井野弁三郎
新井藤太郎

(『市史近代』№41・42より作成)

町村会は町村会に関する一切の事項を議決する権限及び町村長・助役以下の吏員を選挙する権限をもっていた。したがって町村会が成立すると、各町村で町村長・助役を選出し、そのもとで、この執行部が提出した「町村条例」を次々と制定して町村の形態を整(ととの)えた。町村条例の内容は、議員定数、常設委員退隠料(たいいんりょう)給与条例、督促(とくそく)手数料条例、特別町村税条例などであった。常設委員は町村会で選挙し、その任務は「分テ勧業(かんぎょう)・土木トシ、各其行政事務ヲ掌(つかさど)リ」とあり、勧業・土木行政担当の専門委員会として設置された。
これによって、町村制によって発足した新町村の行政の重点は勧業・土木に置かれていたことがわかる。明治二十三年(一八九〇)四月九日、市域の中丸村村会が議決した中丸村条例第三号の特別村税条例(近代№三九)は、内務大臣、大蔵大臣宛(あて)に許可申請されたものである。このように村会の議決は、その内容により内務・大蔵両大臣及び郡参事会の許可を必要とし、この特別村税新設の件は、同年九月八日に「内務省許可第一四五号」として許可された。
この特別村税は、従来、町村役場費のうち吏員給料旅費は地方税支弁であったが、町村制実施以降は町村費支弁となったことにより、特別税・手数料条例を新設して自ら財源を確保する必要があったために設定された。中丸村の場合、田畑宅地に一反当たり三銭を、山林原野(げんや)等に同じく一銭を超えない範囲で賦課するものとし、実際には、耕・宅地反別二銭三厘、山林原野反別七厘と決められた(表15)。これらの増大した町村負担に対して、北足立郡内では経費負担が町村会で議論されることが多かったようである(県行政文書 明七七五)。
表15 中丸村明治二十三年度村税賦課総額一覧表
費 途金 額附 加 税特別税
地 価 割戸 別 割営 業 割所得税附加税反 別 割存置何々税
本村経常費九六六円二九九三一二円一九〇二〇九円九三三二〇円〇〇〇二円六〇〇一五二円五二九(ママ)
六九九円二五二
元荒川水利土切会経常費四二円七〇〇四二円七〇〇
合 計一、〇〇八円九九九三五五円四七五二〇九円九三三二〇円〇〇〇二円六〇〇一五二円五二九一、〇〇八円九九九
地租金弐千六百三拾六円七拾弐銭此七分一金三百七拾六円六拾七銭四厘
剰余金弐拾壱円拾九銭九厘
戸数三百九拾四戸
平均壱戸ニ付金五拾三銭三厘
地方税金弐百五拾円此八厘
本税金壱円ニ付金八銭
本税金壱三円此五分ノ一
本税金壱円ニ付金弐拾銭
総計反別八百廿四円三反九畝拾弐歩
壱反ニ付金壱銭八厘五毛
 内訳
耕宅地反別五百七拾五町三反壱畝拾三歩
壱反ニ付金弐銭三厘
山林原野反別弐百五拾町八反七畝廿九歩
壱反ニ付金七厘

(『市史近代』№39より引用)

このように町村制実施は、先述したように単なる自治体の創設にとどまるのではなく、国家行政事務の地方への委任を伴うものであり、そのために自治能力を持つ町村創設をめざした町村合併の推進が強力になされたが、一方で、行政負担に耐えうる財源を保証するものではなかったため、各町村とも財源確保に苦慮することになる。
そこで町村制実施に伴う町村財政の実態を中丸村明治二十三年度歳入出予算表(近代№三九)からみてみると、村財政の歳入は村税、授業料などの雜収入を基本に、国庫下渡金、直接国税割、寄付金でまかなわれており、実際の財政費目比率は表16のようになっていた。歳入額では明治二十二年七七・三パーセント、同二十三年では七三・四パーセントが村税収入で最も多く、次いで雑収入であった。歳出は、同二十二年では役場費四八パーセントと教育費四〇パーセントが最大支出項目であり、次いで合併間もないこともあって、役場の需用品費が一六・三パーセントと高くなっているが、翌二十三年には一〇・三パーセントに減少する。教育費が歳出の中心となるのは、町村制実施後、学校費の町村負担が義務づけられたこと、さらにに以後の学校教育の施設拡充が進むことなどによるもので、明治三十年代の町村財政は教育費を中心に増大していくことになる。
表16 中丸村、明治22・23年度歳入出予算表
中 丸 村
明治22年度明治23年度
収入%%
財産ヨリ生スル収入
雑収入165,85518.0208,00020.6
前年度繰越金28,4622.8
寄付金35,3953.824,0002.4
国庫交付金7,6000.88,0000.8
県税交付金
村税712,28177.0740,53773.4
  地価割361,31039.0355,47535.0
  営業割21,2852.320,0002.0
  戸別割327,08635.5209,93320.8
  直接国税割2,6000.282,6000.3
  特別反別割152,52915.0
921,1291,008,999
支出%%
役場費 442,78048.0450,00044.6
会議費20,3002.215,7001.6
支土木费74,399874,3997.4
教育費369,33040454,40045
衛生费6,8200.77,0000.7
救助費2,0000.22,0000.2
警備費
勧業費5,5000.65,5000.6
出村公債費
雑支出
921,1291,008,999
歳入出差引残高00

(『市史近代』№39より作成)

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