北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

1 小学校の設置と維持

「学制」の頒布と近代学校制度の成立
慶応三年(一八六七)十月十四日、徳川慶喜(のぶ)より大政が返還され、一五代二六〇余年にわたった徳川時代は終わり、同年十二月九日王政復古の大号令のもとに明治新政府が誕生した。
ここに成立した新政府は、欧米列強に対峙(たいじ)する強力な近代国家を建設するための方策として教育の改革にも意を注いだ。その際、逸(いち)早く大学を中心とした指導者養成に取り組む一方、施政の一環として民衆教育についても配慮し、明治二年(一八六九)二月、府県に「小学校ヲ設クル事」を命じた。この小学校は「専(もっぱ)ラ書学・素読(そどく)・算術ヲ習ハシメ、願書・書翰(しょかん)・記牒(きちょう)・算勘等其用ヲ闕(かか)サラシムヘシ、又時々講談ヲ以国体時勢ヲ弁(わきま)へ、忠孝ノ道ヲ知ルへキ様教諭シ、風俗ヲ敦(あつ)クスルヲ要ス」(『明治以降教育制度発達史第一巻』P二三〇)とあるように、一般民衆が日常生活において必要な願書・書翰(しょかん)・算勘などの用に事欠かないように、読書・習字・算術などを学習させ、また国体時勢をわきまえ、忠孝の道を知るように時々講談を聞かせ、風俗を敦(あつ)くするためのものでなければならない、とされた。そして翌三月には、東北諸県(関東以北)に対して、特に小学校の設置を奨励した。その後も政府は府県に学校を設置することを布達(ふたつ)したので、明治三、四年ごろ各地に学校=郷学校を開設する動きがあらわれ、本県内にも十数校が開設された(『埼玉県教育史第三巻』P七六~一一四)。これらの郷学校は、近世の郷学校に対し一層公的な性格が強く、その創設や生徒募集等には村役人を通じて行政的指令が出され、ある種の強制的な意図を背景に開設された。この意味において明治維新期の郷学校は、「学制」前夜の公立学校として、やがて誕生する近代学校への橋渡し的役割を果たした学校として、その歴史的意義は大きいといわなければならない。
このように民衆学校の設置は明治新政府の重要な施政の一つとしてその振興が策されたわけであるが、依然(いぜん)藩が存続した府藩県時代には全国民を対象に共通教育を施(ほどこ)す制度を樹立することはできなかった。それは「学制」の頒布を待たなければならなかった。すなわち、明治四年(一八七一)七月十四日、廃藩置県(はいはんちけん)を実行した明治政府はその四日後の七月十八日、全国の教育を統轄(とうかつ)する機関として文部省を創設した。この文部省の当面の課題は、全国民に共通の近代的な教育制度を定めることにあった。その作業は学制取調掛(一二名、うち一〇名が洋学者)のもとで進められ、翌五年三月にはほぼ草案ができ上がったが、財政上の理由で延期され、同年八月三日、我が国最初の近代的総合教育法規である「学制」が頒布された。「学制」は本文一〇九章(後に追加されて全二一三章となる)からなっている。
「学制」に定められた教育制度の概要を紹介すると、まず学校を設置する基礎として学区制を採用した。この制度はフランスの学制に模したもので、全国を八大学区(のち七大学区に変更)に、各大学区を三二中学区に、さらに各中学区を二一〇小学区に区分し、各学区にそれぞれ大学・中学・小学を各一校ずつ設ける、というものであった。したがって、全国に設けられる学校の数は大学八校、中学二五六校、小学五万三七六〇校であって、まさに規模雄大な計画であった。なお、学区は学校を設置する基本単位であったぱかりでなく、地方教育行政の単位でもあった。各大学区には督(とく)学局を、各中学区には学区取締を置いて当該学区内の教育行政を担当させた。こうして文部省を頂点に、各段階の学区を階梯(かいてい)とした教育行政の体系が成立し、この中央集権的な組織を通じて末端に至るまで政府の教育施策が浸透するように計画された。中学区に置かれた学区取締は地方の「名望家」が任命され、一人でおよそ二〇から三〇の小学区を担当したので、その職務はかなりおもかった。そこで村々に学校保護役などと称する補助機関を設け、学区取締の指揮監督のもとに学校の設立や就学の奨励などを行わせた。
学校については大学・中学・小学の三段階を基本とし、ほかに中学に準ずるいくつかの実業学校、高等専門教育を行う専門学校、教員を養成する師範学校などが設置されることになった。小学校は「教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルへカラサルモノ」(第ニ一章)と定め、尋常小学のほかに女児小学・村落小学・幼稚(ようち)小学などをその種類に掲(かか)げた。しかし、尋常小学を標準とし、教科については尋常小学についてだけ定めた。その尋常小学は下等小学(六歳~九歳)と上等小学(一〇歳~一三歳)の二等に分けられ、修業年限は各四年計八年であった。下等・上等とも各年二級に分けられ、各級の教授要旨や教科書は「小学教則」(明治五年九月、文部省)に指示された。
教員の資格については、小学校では男女とも満二〇歳以上で師範学校ないし中学校の卒業免状を得た者、中学校では満二五歳以上で大学卒業免状を得た者、大学の教員は学士の称号を得た者でなければならないとした。しかし、この条件は即座に適用できる性質のものではなく、将来の到達目標を示したものといえる。
生徒の試験については、特に厳格な規定が設けられた。生徒は六か月を一級とする各等級を試験によって進級し、さらに小学・中学の全級を卒業するときには大試験が課せられた。このことは「学制」による近代学校が、知識中心の学校であったことを示唆(しさ)している。
このように明治五年の「学制」は、近代学校に関する基本的総合法規として世界に誇り得るほどの立派なものであったが、それだけに当時の民情にそぐわないところがあり、「学制」の計画をそのまま実施することは困難であった。しかし、近代学校の基底としての小学校は政府の強力な督励策(とくれいさく)によって変形しながらも全国に普及し、その数は明治九年(一八七六)においておよそ二万五〇〇〇校に達した。それは「学制」の計画の半分にも満たないが、小学校の設置基準や当時の民情などを合わせ考えれば、その数に関する限り過少に評価することは妥当(だとう)ではないだろう。

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