北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

1 小学校の設置と維持

校舎の新築
埼玉県(旧)では「学制」実施への取り組みが早く、明治五年(一八七二)中に一四の公学校が誕生した。そして翌六年には、小学校の設置が本格的に開始された。その場合、ほとんどが寺院であって、当初から校舎を新築した例は皆無に等しい。
すでに述べたように、北本市域に開設された四つの小学校はすべて寺院であった。すなわち、お寺の本堂のある座敷が近代学校としての小学校の教場となった。しかも、四校中三校が寺子屋を母体として誕生した。

図4 高尾学校校舎新築図面

(矢部洋蔵家 162)

しかし、隣接の他地域に負けず、北本市域にも比較的早く新校舎が建てられた。第一三番中学区一九六番小学の高尾学校である。この学校は、従来高尾・荒井・原馬室・滝馬室の四村の連合学校であったが、同十年に滝馬室村が、さらに学校新築に際して原馬室村が連合から分離したので、結局高尾・荒井の二村で校舎を新築することとなった。学校の新築に当たって両村は、同十一年三月二十二日「約定書」を取り交わした(近代№一七〇)。その内容は、一、資本金は両村それぞれ有志の者一人金五円宛の出金を募る。二、建築用材は高尾村氷川上知官林を払い下げる。三、敷地は両村便宜の場所(高尾村字鐡附面、荒井村字宮の前の内)を借地し建築する。四、校舎用地は約五〇〇坪とする。五、校舎の建坪はおよそ六〇坪とし、普請仕様は最寄(もよ)りの大工職に見積らせ、入札の上決める。六、普請(ふしん)に当たっては、一村一名立ち合い経理の明確化を図る。七、学校の名祢は十分に協議して改称する。八、官林払い下げ金の取り扱いに関しては、二か村の申し合わせによる、というものであった。
このような「約定書」に基づいて新築工事を進めるため、明治十一年(一八七八)四月七日、両村は白根県令に校舎新築願を提出、同月二十日に認可され、早速工事に着手した。そして、翌十二年一月にめでたく落成した。「校舎新築落成御届」(近代№一七ー)によれば、新築費は五七八円一二銭九厘であって、「小学校舎新築入費受払帳」(近代N№一七二)には、その収支明細が記されている。資金収入をみると、官林払い下げ立木売却益金三〇一円ニ一銭五厘、常費金補助二〇円、荒井村出金一〇四円八二銭五厘、髙尾村出金一五六円五一銭九厘であった。場所は「約定書」のとおりであって、それは高尾村氷川神社の東側に位置した。新校舎の平面図は図4のとおりである。大きさは一一間×五間に三間×二間の一棟がついており、坪数は延べ六一坪である。「約定書」どおりの設計といってよいだろう。この図面だけではどのような形をしていたのかその立体形はわからないが、先にあげた「受払帳」の支出明細からいくつかの条件を知ることができる。それは①木造平屋建、②瓦葺屋根、③玄関一棟、④硝子(がらす)窓、⑤生徒昇降口つき、⑥小使室一棟、⑦便所一棟という内容である。これらの条件を先の図面に重ねてみると、玄関、小使室及び便所の各棟が図面から欠落している。校舎に附随している三間×二間の一棟は、教員控室であろう。察するに、正面中央に玄関、その左右に五問X四間の教室が各一つ、教室の北側に廊下、教員控室の反対側の廊下の隅(すみ)が昇降口という問取りであり、便所は昇降口に近い校舎の裏側附近に別棟で建てられたのではないだろうか。

写真15 高山学校前景

(『石戸小学校60年史』P3より引用)

ところで、「約定書」には協議の上校名を改称するという条項が入っていたが、すぐには変更されなかった。校名が高山学校に変わったのは、『石戸小学校六〇年史』によれば明治十六年(一八八三)一月の増築に際してであって、増築校舎(二階建一棟)が落成したのは翌十七年十一月であった。そのときにはすでに連合戸長役場制がしかれ、高尾・荒井の両村はかって学区を共にした現鴻巣市域の原馬室、滝馬室地域と統合して原馬室村連合戸長役場区域となった。そして、その連合戸長役場区域を学区として一つの学校を設けることとなった。ここに学校の統廃合が行われたが、高山学校は新築校であったので、共盛学校分教室として存続し、さらに町村制の施行によって新しく石戸村が誕生すると、石戸学校高山仮教場となった。高山仮教場が独立の尋常小学校になったのは、明治二十七年であった(『石戸村郷土誌』)。
連合戸長役場制の施行と学区の改定に伴って、隣の上日出谷村連合村でも学校の新築が行われた。すなわち、石戸学校と西石学校を統合した新しい石戸学校の新築である。新築事業は同連合戸長吉田徳太郎が中心となって進められ、各村より寄附金を募り、一〇〇〇円の資金で大蔵寺西脇に新校舎を建設した。現在、吉田博正家の庭前には記念碑「石戸学校の碑」が建てられ、表には「戸長吉田徳太郎氏見るところ有、茲(ここ)に於て二校を合し建設を謀(はか)らんと欲し百方部内有志者を勧誘す。衆庶亦(しゅうしょまた)其の議に賛す。以て各村壱千円を醵金(きょきん)し其の費(ついえ)に充つ。経営半歳にして成る。名を石戸学校と称し、令して茲に明治二十年(一八八七)十月十二日開校の典を挙ぐ。」と記され、裏面には上日出谷村連合村民及び高尾・荒井の村民一三〇名から寄附された金額が刻まれている。新校舎の見取図などは残念ながら明らかではない。

写真16 石戸学校の碑

(『石戸小学校80年史』P63より引用)

写真17 石戸学校の碑

(『石戸小学校80年史』P63より引用)

石戸学校と同時期に、東間村連合戸長村でも学校の新築が行われた。この地域には宮内・中丸・梅林の三つの学校が存在したが、一学区一校主義のもとに三校を統合し、連合村の中央部に校舎の新築を計画した。「校舎新築伺」は明治十九年十二月二十二日、矢部東間村連合戸長から吉田県令に設計図を添えて提出された。この新築伺は五日後の同月二十七日に申請どおりに認可された。明治二十一年「山中学校寄付連名証印簿」によれば矢部連合戸長を中心に村内外広く寄附を募り、三〇〇人を超える人々から八〇四円八八銭五厘の浄財が集められた(『中丸小学校八〇年史』P四三)。工事は順調に進み、翌二十年三月、古市場村堀込に新校舎が完成した。それが山中学校(創立は明治十九年四月)の新校舎である。開校式は同年三月十九日に行われた。
山中学校の新校舎は、平屋瓦葺で間口一二間、奥行五間の面積(六〇坪=一九八平方メートル)で中央に玄関を配した一棟と、板葺平屋で間口五間、奥行二間半の面積(一二・五坪=約四一平方メートル)の校舎ニ棟がコの字型を形づくって東南に面していて、教室は大小合わせて七つあった。附属建物として教員控室(五坪)・小使室(六坪)及び便所二棟があり、校舎と附属建物の総面積は九八坪(約三二四平方メートル)となり、建築総経費は八五七円四五銭であった。開校式当日は、小泉北足立郡長をはじめ多数の来賓・関係者、及びこれまで宮内・中丸・梅林の各校で学んでいた全児童が参加して盛大に式典が行われた。そして北足立郡第四三番学区「山中学校」の実質的な第一歩が踏み出された。
本校が新築開校された年の十二月二十七日、矢部連合戸長は学校敷地願を吉田県令に提出し、三反二畝一三歩を学校敷地とする許可を求めた。それに対して、明治二十一年(一八八八)一月十八日認可された。山中学校開校当時の校地・校舎の平面図は図6のとおりである(『中丸小学校八〇年史』P四六)。

図5 山中学校新築校舎の側面図

(『中丸小学校80年史』P44より引用)

図6 開校当時の山中学校校舎平面図

(『中丸小学校80年史』P46より引用)

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