北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

2 就学の督励とその実態 

就学の督励

写真18 告諭

(県行政文書 明93-2)

明治五年(一八七二)の「学制」に定める小学校は、下等小学四年・上等小学四年、計八年制であって、学齢児童(満六~一四歳)は男女の別なくすべて就学しなけれぱならないとされた。すなわち、小学校は国民皆学をめざす大衆学校であって、それは明治政府の文明開化政策を代表するものであった。そこで政府は、太政官(だじょうかん)布告(第二一四号)をもって新しい学校の趣旨や就学の必要性を全国民に説諭した。これは「学制序文」ないし「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされがき)」ともいわれ、そこには立身出世・治産昌業主義の教育観が明確に表明されている。政府は、地方長官に対してその趣旨の徹底を命じた。
埼玉県(旧)の「学制」への対応は早く、明治五年中に二回(八月と十一月)にわたって「告諭」を発し、就学の奨励を行った(『埼玉県教育史第三巻』P一四六~一四七)。いずれも太政官布告を敷(ふ)えんした内容になっており、しかも「早ク学校ヲ設ケテ宏大ノ朝旨ニ背(そむ)カザル様志スベシ」と指示していた。教育の普及は国家的大事業であり、その推進は府知事・県令の重要な行政課題であったから、その後も就学督励に意を注いだ。野村県令に代わって埼玉県政を担当した白根多助は、同七年四月、長文の「告諭」(『埼玉県教育史第三巻』P一五一)を布達し、「自今ノ急務ハ小学ニ在リ」と述べ、その必要性を切々と説諭した。そして翌八年十月、督励の手段として「不就学督促法」を定め、九年一月よりこれを施行した。この督促法は①不就学防止のための責務の明確化、②貧困者への補助、③警察官の応援、の三つを主な内容とした。小学校が誕生した明治初年には、各府県とも就学督励についてさまざまな工夫を凝(こ)らしたが、警察官との連携(れんけい)において不就学者をなくそうとする方策は、多様な督励策の中でも最も厳格な事例といえよう。
明治十年代の教育令期においても、就学問題は、依然地方教育行政上の一大問題であった。周知のとおり明治十二年(一八七九)の第一次教育令は、「学制」と同様に満六歳から一四歳に至る八か年を学齢とし、その間「少クトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ」(第一四条)と定め、最低の就学義務年限を大幅に短縮した。また、学校以外への就学を認め、総じて「学制」にくらべ就学条件を著しく緩和(かんわ)した。
しかし、白根県令は教育行政に対する方針を変えず、学務委員を通じて極力学校への就学を奨励した。したがって、学齢人員及び就学・不就学者の調査と報告は、学務委員の最も重要な職務であった。明治十三年(一八八〇)に第二次教育令が公布され、再び就学条件が強化されると、埼玉県は同十四年十月、就学督責規則起草心得に準拠して学齢児童就学督責規則を定め、その徹底を期した。白根県令の後を継いだ吉田知事も、白根路線を踏襲して積極的に教育の振興に当たった。その場合、実質就学率(日々出席率)の向上が当面の課題とされた(『県史通史編五』P五一ニ)。

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