北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

2 就学の督励とその実態 

入学・進級・卒業
ところで、埼玉県(旧)は小学校の設置が本格的に進行した明治六年の八月、小学校に関する管内最初の統一規程として埼玉県公私小学規則を公布した(『県史通史編五』P二六七)。それによれば、児童の入学は二月十三日、五月十三日、八月十三日、十一月十三日が定日とされ、入学の際保護者は一定の書式の「入学願書」をその学校へ提出する。それは「此度入校相願候尤(もっとも)御規則堅(かたく)相守(まもり)聊(いささかも)違背仕間舗(つかまつりまじく)候也」(第四三章)というものであったから、入学時における「誓約書」というべき性質のものであった。児童の入学は、この書類の提出に始まる。教育が普及して以後は小学校への入学はだれでも満六歳が常識となっているが、当時はだれもが満六歳で入学したわけではない。それ以上の年齢で入学した者も珍しくはなかった。とにかく、しぱらくは児童の入学年齢はさまざまであって、一定してはいなかった。しかも、進級も現在のように一年単位ではなく、半年ごとの試験による等級制で行われた。「生徒初テ学ニ就ク者ハ都(すべ)テ第八級」(第四五章)であって、試験を経て順次昇級し第一級に至る。
そして卒業試験(大試験)に合格すれば、まず下等小学卒業ということになる。上等小学も同様に第八級に始まり第一級で終わる仕組みである。いずれも各級は六か月間で修了することを基準としたが、それは決して一年の半分を意味したのではなく、グレード(内容の程度)を意味した。一科四年、一級半年という定めは、あくまで一般的な標準にすぎなかった。
試験によって昇級がなされる以上、一緒に入学してもその後の進級はまちまちであって、みんなが揃(そろ)って進級・卒業というわけにはいかない。試験に落第すれば、なおその級に留め置かれ、逆に成績が優秀であればその学力にふさわしい等級に飛び級することができる。徹底した能力主義である。したがって、下等・上等ともに四年であるが、それよりも短期に修了し卒業することが可能なわけである。生徒集団の進度よりも個々の生徒の進度こそ重要なのであるから、等級制のもとでは集団教授としての一斉教授法はなじまない。
教育令期にも等級制による進級制度が施行された。すなわち、初めて学に就く者を初等科第六級とし、順次試験を経て昇級させ一級に至る仕組みである。したがって、この期においても試験は学校の一大行事であった。試験は定期試験と月次試験の二種類あり、定期試験は進級試験に該当(がいとう)するもので毎年春秋二回行う。この試験に合格しなければ「尚元級ニ止」まる。月次試験は毎月月末にその月に教授した内容について試験し、その優劣によって毎級生徒の席次を進退するものであった。
なお、定期試験の際には、県は学務吏員(りいん)を派遣し、試験の様子を視察させると同時に、郡学務掛・町村学務委員は試験に立ち合うことが義務づけられた。このほか戸長・村の学事関係者・父兄などにも参観するよう呼びかけた。毎級の定期試験に及第(きゅうだい)すると、その学校から修了証書が授与された。さらに全科を修了した者には、県から卒業証書が授与された。

写真19 卒業証書

(中丸小学校蔵)

写真20 卒業証書

(中丸小学校蔵)

<< 前のページに戻る