北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

2 就学の督励とその実態 

就学の実態
表20 明治前期の小学校への就学率

全  国埼 玉 県
明治6年39.915.133.47.5
  742.217.247.211.8
  850.518.656.714.8
  954.22159.618.4
  105622.558.717.9
  1157.623.56423.3
  1258.222.663.721
  1358.721.959.920.8
  146024.75820.7
  1564.73163.625.8
  1667.233.669.131.4
  176733.371.330.6
  1865.932.168.231.7

(『埼玉県教育史第3巻』P344より作成)

学校を創設しそこへ児童を就学させることは、文明開化政策の最大の課題であった。そこで、地方教育行政担当者はあの手この手を通じて就学の督励(とくれい)を行ったが、その結果はどのような状況であったのか。次に、その問題について見てみよう。
明治九年(一八七六)、この年は「学制」実施五年目に当たる最初の節目の年である。その年の『文部省第四年報』中の「埼玉県年報」には、「明治六年立学ノ際二当リテ人民概(おおむね)旧染ヲ脱セズ、故ニ学校ヲ悪(にく)ム毒薬ノ如ク、或ハ生徒ノ就学ヲ拒(こば)ミ甚(はなはだ)シキハ火ヲ諸黌(しょこう)ニ放ツモノアリ」(同書、P八一)とのべられ、「学制」の実施が必ずしも歓迎されていない様子が正直に報告されている。学校を毒薬のごとく考え学校を焼打ちする事件は極端な例としても、就学を拒否する傾向はその程度こそ異なれ、全国どこの学校にも見られた現象であった。近代学校の成立期ともいえる明治前期の就学状況を表示すれば、表20のとおりであって、今日からすればきわめて低率である。埼玉県の就学率を全国のそれと比較すると、男子の場合、大部分の年度において全国平均値を上回っている。しかし、女子の場合は終始全国平均値より下回っている。女子の就学者は「学制」期後半で六人に一人、明治十年代前半期で五人に一人、後半期になっても三人に一人の割合である。当時は、まだ女子を小学校に通わせるのは少数の家庭でしかなかった。北本市域の各小学校の就学実態を知る資料は乏しく、わずかに『文部省年報』(明治八年~十年)と田島和生家文書があるにすぎない(田島和生家三七・四二)。そこで、『文部省年報』によって学校別・男女別に就学者数を示せば、表21のとおりである。この表から明らかなように、男子に比べて女子の就学者が非常に少ない。埼玉県全体の就学状況の特徴の縮図をこの北本市にみる思いがする。
表21 「学制」における学校別就学者数
学校
明治年
石  戸高  尾中  丸宮  内
8947143775105510
987201281776297433
1095101011386405313

(『文部省第四年報』~『文部省第六年報』より作成)

なお、この表からは学齢人口がわからないので就学率を算出することができない。そこで、参考までに明治八年二月の「荒井村学齢人口調査」(近代№一六六)によってみると、高尾学校区の荒井村の学齢人口は男五四人、女四八人、計一〇二人であって、このうち就学者男三二人、女四人、不就労者男二二人、女四四人であった。したがって、当時の荒井村の就学率は男子はおよそ六〇パーセントであったのに対し、女子は一〇パーセントにも達せず、わずか八パーセントにすぎない。残念ながらこの数字は県平均以下であった。目立って多い女子の不就学理由とは、一体何だったろうか。それを地域の資料によって裏づけることはできないが、恐らく経済的な理由によるものと推測される。こうして、文明開化をめざす国民皆学の推進は、貧困の克服という大きな試練を乗り越えなければならなかった。

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